つれづれに

つれづれに:田植え準備

加江田神社の展望所から

 田に水が張られ始めた。田植えの準備が進んでいるわけだ。台風が来る頃から逆算して田を起こし、水を張るようだ。まだ一割程度だが、そのうちどの田にも水が張られ、三月の終わり頃には田植えが始まる。過去の「つれづれに」にも、田植えの準備について書いている。→「春めいてきました」(2013年3月11日)

奥正面が室内練習用のドーム、左手が総合公園入口

 最近はわりとよく歩けている。昼間は暖かいので汗ばむほどで、体を冷やさなくて済む。今年は東京でも雪が積もったそうだから、穏やかでほんとうに助かる。陽が射してくれると、余計に有難い。暖かい昼間に、一番長いコースを歩くことが多い。高台の公園から墓地を通って加江田神社により、木花駅の南側踏切からサンマリーン球場の見える県道で折り返し、木花駅脇の踏切を渡って、小学校、中学校脇を通って戻る一時間ほどのコースだ。最近は木花駅からコース2を逆に辿って公園から家に戻る場合もある。鳥用の柑橘類の実を拾うためである。誰も実を摘まないまま次の花を咲かせる樹から落ちる実を拾うだけだが、柑橘類の宝庫だけあって、来てくれる鳥たちに充分に出せるだけの実が拾えるのは、有難い。さすが南国である。「 歩くコース2」→、→、→、→、→(2021年7月30日~9月10日)

今日もマッサージで全身の手入れをしてもらいに白浜に出かけた。天気のお知らせでは最低気温が0℃とあっただけあって、曇り空で風も冷たかったので、海の色がもっと深いと予想していたが、それほどでもなかった。実を切るような寒さで晴れている時の色の濃さはなかった。

曽山寺浜にかかる歩行者・自転車用の道路の橋の上から

 風が強く波も高かったのでサーファーはいなかったが、結婚したカップルと親族らしき人たちが砂浜で写真を撮っていた。顔がわからないほど遠くからなので、無断で撮らせてもらった。背景は青島である。浜の手前の旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げたあと、撮影に出たようだ。何年か前に、息子たちも同じように浜に出て写真を撮っていた。両親の不仲を見て育ったので結婚はしないと決めていた相手に結婚してもいいなと思ってもらえたみたいで、目出度く二人は結婚した。相思相愛の相手に巡り合えるのは稀有なことなので、相手の人が私たちには天使に見えたほどである。東京の海の見えない所で育った相手が、海の見える所で結婚式をしたいと言ったと聞いたので、それならと旧パームビーチホテルの浜辺のチャペルで式を挙げる手配をした。結婚式までに挨拶をという話もあったが、猫が3匹いるので二人同時に出かけるわけにいかないので、時差で挨拶に行きましょか、と言ってみたら、それじゃ私たちがそちらに伺いますと言うことになった。東京から両親と兄と、仙台に住む叔母の5人が宮崎に来てくれた。こちらは事情があって私たち二人、計8人が式に参加、そのあと会食をした。妻からはしゃべらないでねと言われていたので、その通りにしたのがよかった。しゃべらなければ、聞くしかない。相手がみんな酒好きだったのも幸いした。もりもり食べて、おいしそうに酒を飲んでいた。大成功である。本当は式は苦手なので勘弁して欲しかったが、式をしたい人に反対する気持ちもないので、流れにまかせた。思い返せば、自分たちの式も同じ感じだった気がする。僕は式は苦手だし金もないし出来ればしたくないがと言ったが、私はウェディングドレスは着たい、結局折り合いをつけて、式にはお互い3人ずつ合計8人が参加、その後会食。費用はどちらも「パパ」が出した。計画などあるはずもなかったが、期せずして人数までいっしょの8人だった。場所は今はもう存在しない六甲山頂のオリエンタルホテル。窓から見える百万ドルの夜景。夕食のカレーライスが絶品だった。

 折生迫の県水産試験場内の樹にも毎年お世話になっている。誰も実を採らないので、落ちた実を拾わせてもらって鳥に献上している。去年は幸いここで拾わなくても他で実を集められたので、春に花が咲いてもまだ実が落ちないまま付いていた。今年は、今日初めて落ちた実を1個拾い、持って帰ってきた。あまり食べたことのない橙系の実である。堀切峠下海岸道路について書いた時に水産試験場を紹介した。→「堀切峠下海岸道路②」(2021年11月1日)

水産試験場を過ぎた辺りで、急に海がわっと広がる↑

つれづれに

つれづれに: 大学6:無意識の「常識」6

小島けい手製カレンダー2006年

立春でもまだまだ寒い日が続いている。24節気では4つの季節をそれぞれ6つに分け24のひとまとまりに名前がある。それぞれの期間が約半月ほどで、一般的に始まりの日にその名前が使われるが、その期間をその名前で呼ぶこともあるらしい。今年の立春の始まりは2月4日で、次が2月19日の雨水(うすい)ということになる。畑をしていると、季節の動きがわかって、二十四節気もなるほどと思うことが多い。6日に鞘オクラ、胡瓜、茄子、とまとの種を何とか蒔いた。茄子もとまとも粒がきわめて小さいので、芽が出てくれるといいが。毎日ガラスケースから出して陽に当ててはいるが、今のところ芽は出ていない。

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、教師についてである。「つれづれに」で「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」(→「高等学校2」)、「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いたが(→「高等学校3」)、もちろんその人たちだけのせいでもない。

延々としゃべり続けたのも、生徒を丸坊主にして制服を着せたのも、前からやっていたことを普通にそのままやっただけである。教員は団塊世代の私より一回りも二回りも歳上で、大半が戦前の教育を受けていたわけだ。田舎町ながら、神戸まで一時間ほどの距離で国鉄(今のJR)も複線、何駅か東に行けば複々線、経済的に複線を維持するだけの人口を抱えていたわけである。そんな地域で唯一の進学校の教師だったということになる。戦前は進学率も低く大学に行く人もそう多くなかったそうだから、それなりに勉強も出来て高校に入り、受験勉強もして大学に行き、教員になったんだろう。実際、1、2年の担任は数学で広島大、3年の担任は英語で東京教育大(筑波大の前身)だった。神戸大が多く、大阪教育大もいたようだ。高校の教員になった1年目は1、2年で担任だった教員と同僚になって近くの席に座り、教務をやらされた。時間割の作成や授業の実施と運営が主な業務で、教務主任のその人が学校運営の要で、校長が引っ張ってきたこともあり、管理職からも他の職員からも一目置かれていた。その人から兵庫県では広島大卒業生の尚志会という同窓会があり、校長や教頭の橋渡しをしていると言ってたよと隣の席の人から教えてもらったことがある。ある年、その人も尚志会の推薦で筋書き通りに教頭試験を受けたらしいが、次の朝「あほらしいてやっとれるか、わしゃもう辞めや、辞め」と言ってたよとも聞かされた。気質からして、イエスマンになるのが我慢ならなかったようだ。3年の担任は同じ東京教育大出の先輩に引っ張られて指導主事になり、研修所で現役教師の研修をしていたと聞いたが、その後どうなったかは知らない。

高校ホームページから

その人たちは自分たちの生まれた制度にうまく対応して生きただけである。親やその親の世代もまた、同じように生きたに違いない。今の教育制度の枠組みは明治維新で作られた。開国を迫られて鎖国体制を諦めたからである。鎖国の間に、西洋諸国は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こして、農業中心から産業中心の社会に変わっていた。原材料と労働力を求めて植民地争奪戦を繰り広げて、経済自体も飛躍的に拡大し、体制を守るための兵器や軍事力も大幅に強化されていた。その強大な力で脅され、開国したわけである。アメリカやヨーロッパの制度や議会制民主主義を借用し、幕藩体制から産業中心の明治政府に移行した。しかし、人が変わったわけではない。明治政府を支えたのは江戸幕府の武士である。第2次世界大戦で体制が大きく変わったが、新体制の中心は戦前の人たちだった。

アメリカ映画「ルーツ」から

ただ、体制が変わっても、生産される富が平等に分配されたことはない。一部の金持ち層の都合のいいように社会は動かされて来た。その人たちは議会制民主主義を巧みに政治家を利用して法を作らせ、富を増やすために役人を育てて自分たちの利益を優先した。戦後も戦前も、武家社会も貴族社会も基本構図はそう変わっていない。稗や粟を食べ、粗末な茅葺の小屋に住んだ時代もある。中学を出たてで紡績工場に就職して「哀史」に残された女工たちもいた。不安定で安賃金の非正規雇用で先の見えない若者も多い。今のように経済規模が拡大し、社会も複雑化すると、余りにも対象が大き過ぎて掴みにくいが、基本構図は同じである。最初にそれに気づいたのは、修士論文でアフリカ系アメリカ人の作家を選び、その作品を理解しようとアフリカ系アメリカの歴史を辿っている時だった……奴隷貿易と奴隷制で法外な利益を上げた荘園主の金持ち層が自分たちの利益を守るために民主党を作り、代弁者を首都ワシントンに送り込んで16代まで民主党が大統領だった構図は、極めて分かり易い。北部で結成された共和党がリンカーンを大統領候補に立てたのは、力をつけ始めた産業資本家の金持ちが、利益を独占してきた荘園主の金持ち層に力で拮抗してきたからである。必然的に奴隷と奴隷制を巡って利害が対立して南北戦争が起きた……

エイブラハム・リンカーン

丸坊主に指定のズック靴を履き制服を着て、通学道路を通ったのも、そういった過去の延長線上にあった、大きな歴史の枠組みの中では、そう思えるようになった。前や隣の席のクラスメイトと同じように受験勉強をして、そこそこの大学に行っていたら、たぶんそんな観方をすることはなかったように思う。挫折をして、諦めて、初めて気づいたのかも知れない。

次回は「丸坊主と制服」か。

授業

Zoomトーイック:2022年2月12日

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」2月

<やった内容>

Part 7 (reading)5問(③149-150, 151-152, 153-154, 155-157, 158-160)

Part 4(listening)の3問(①98-100 ②71-73, 74-76)

最初にabroadを使って短文を作り、各自に発表してもらいました。語彙の使い方をチェックできるのでaから順にやって行こうと思ったんやけど、短い時間には難しいかもね。副詞でsutudy abroadとかbe abroadとかよく使う便利な言葉やね。

<次回>予定:中原さんから連絡してもらうんで、みんなの集まれるいい日に

来月で年度も終わるし、今後どうするかみんなの意見を聞きたいです。このままやるか、違う形でやるか、区切りをつけてやめるか、など。始める時にいつまでやるかは話してなかったんで。

<コメント>僕の近況はブログ→「ノアと三太」の「つれづれに」に書いて、ホームページ→「ノアと三太」にも貼ってます。

* 科研費があるんでときどき事務所に寄って事務の川北さんや原さんたちと話をするくらいで大学のことについてはあまり聞いてないんやけど、地域学部でクラスターが出て校舎に入れないみたいやね。入国規制を緩和するような動きもあるけど、まだ先が見えないねえ。ミルくんが卒業までに戻れるとええのにね。

* 立春が過ぎて春ももうすぐみたいやけど、まだまだ寒い日が続きそうなんで、気ぃつけや。

<参加出来なかった人:KIM Meereu、得能万里奈、植村尊、山田大雅>

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」

つれづれに

つれづれに: 大学5:無意識の「常識」

植え替えて少し大きくなった小葱

葱も冬野菜の一つである。去年も秋口に何度か種を蒔いたが、気温が高かったせいか芽が出なかった。それが11月に入ると、しっかりと芽が出て大きくなるから不思議である。去年種を採ろうとしたが、小葱は葱坊主になる前に終わってしまったし、太葱は出来た葱坊主が長雨で腐ってしまった。今年は種採りに、再挑戦である。まだ植え替えが終わってないものもあるので、何とか植え替えたいものである。葱はにおいもきついので以前はさほど食べなかったが、今は毎食の味噌汁に入れて結構な量を食べるようになったので、細かく刻んで冷凍保存していつでも使えるようにしている。

植え替えられないままの小葱

今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、3年生の時のクラスメイトについてである。1、2年生の時は社会活動ですることが多く、特に学校に関心が向かなかったからか教室でもほとんどしゃべらなかったが、3年生では学年全体も席の周りも受験を意識していたせいか、前と左隣の3人でわりと話をしたように思う。1クラス55人で7列、北側から3列目の前から二番目が私の席だった。私は相変わらず受験勉強は出来ないままだったが、二人は普通にやっていたようだ。前の席のクラスメイトは相当な自信家で、最初から関学に行くつもりで3科目に絞っていると言っていた。文科系の場合、英国社で受験する人が多いが、社会の代わりに数学を選択していた。数学には特に自信を持っているようだった。親が警察官でかなり厳しく育てられたらしい。元々無口で人と話しているところを余り見たことはなかったが、なぜかよく後ろを向いて話しかけて来た。そこへ左隣のクラスメイトが口を出してくることが多かった。陽気で、いつもにこにこしていた。学校には可能な限りいたくなかったので、休めるときは色々口実を作って学校に行かなかった。普段は始業の10分前に出て、放課後は十分後に家に着いていた。いっしょに社会活動をしていた同級生や下の学年の誰かが家に来ることが多かったこともある。宮崎医科大学でも研究室に必ず定期的に学生が何人も来てくれたが、同じような状態だった。何か特別な話をしたわけでもないが、来たら必ず2時間か3時間は話をしてから帰って行った。どちらの場合も、自分のことで一杯一杯だったが、喜んで話し相手をさせてもらった。

情に流されたのか、放課後、自転車を押しながら前の席のクラスメイトを駅まで送っていった時期がある。駅まで10分余りの距離である。日南線のような1時間に列車が1本あるかないかのダイヤのローカル線で、家が2駅目の駅のすぐ近くにあったらしい。「つれづれに」で学校帰りに近くの寺に時々寄っていたと書いたが、放課後すぐに家に帰らずに寄り道したのはその二つだけである。→「高等学校2」(2022年1月19日)

よく通った寺の観音像があったと思われるお堂

ある時、いっしょに高知受けへんか、と前の席のクラスメイトに言ったことがある。関学に行くと言ってたから、まさかとは思ったが、それもええなと言ってくれた。もちろん国立大の1期校だったので社会も理科も要る。受験勉強もしてないのに、国立を受けるなら社会2科目かと考えている時に、1科目にしたら楽そう、とどうも思ったらしい。それでつい言ってみたら、いっしょに受けに行く流れになってしまった。当日、もうすぐ結婚するらしい二人目のお姉さんまでついて来てくれた。旅行ついでにいっしょに行くと言ってくれたらしい。今はなくなった宇高連絡船(宇野←→高松)の上で少ししゃべった記憶がある。偏差値はそう高くなかったと思う。私は落ちて当然だったが、英数に相当自信を持っていたのに私といっしょに落ちたのはなぜだったのか。二人はどちらも関学に行った。隣の席の方は社会学部から兵庫県庁に、前の席の方は法学部から兵庫県警に就職した。卒業後に会ったのはそれぞれ1回きりで、警官になった方とは、当時住んでいた家の近くの朝霧駅のプラットホームで偶然会った。「この前テレビに映ったんやけど、犯人より人相が悪いと妻と子供に言われて」、と苦笑していた。すっかり警察官の顔だった。もう一人とは電車の中で会った。「俺ら出来悪い劣等生やったもんな」、と卑屈そうな表情で言われて「へぇー、そう思(おも)てたんか、他のやつらもたいしたことなかったやん」、と言い返してしまった。「出来悪い劣等生」には違いなかったが、卑屈な思いを受け入れる気にはなれなかったからかも知れない。それ以来、消息も聞いていない。

次回は、教師についての、無意識の「常識」か。

高校ホームページから