つれづれに

一般教養

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

一般教養科目も→「第2外国語」(4月4日、→「ロシア語」、4月5日)、→「英会話」(4月7日)と同じように、高校までなかったものの一つだった。体育もあった。正職員として昼間働く夜間学生にとっては、授業の中で運動が出来るのは楽しみだったかも知れない。昼間の学生といっしょに運動クラブで練習をしていなければ、もっと新鮮だったと思うが、それでもそれなりに楽しかった。検察庁の事務官をしていたクラスメイトと帰り道でも気軽に話をするようになった。身長のあったクラスメイトがリバウンドを取り、私がパスを受けて得点することが多かった。法経商コースを取り、4年で卒業して大手の電機メーカーに就職したことを得意そうに自慢していたので、いっしょにプレイしていなければ話をしていなかったような気がする。「内定をもらったあとの二人は阪大と市大やった」と嬉しそうに言っていたから、神戸の経済を二度落ちて傷ついていた入学時の自尊心を、ある程度は回復出来たのではないか。→「夜間課程」(3月28日)

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

すべて選択制だったが、選択の幅はそう広くなかったように思う。地理学、心理学、哲学を取ったが、学年全体の定員がそう多くなかったわりには、地理学と心理学はかなり大きな教室に学生もたくさんいたように思う。哲学は敬遠されたのか、受けている学生はそう多くなかった。3科目とも自分の専門分野の入門的な色彩が強く、浅く広く、だったような気がする。ただ、一年目は前期の学舎封鎖のお陰で、一般教養の科目は出席をあまり問わなかったので、授業にはほとんど出ていなかったのに試験を受けることが出来た。特別準備もしていかなかったので、心理学は全くのお手上げだった。行きの電車で偶に会っていた隣のクラスの人に、お手上げなので写してもええかと聞いたら、ええでと言ってくれたので、丸写しで出した。良だった気がするが、担当者が見逃してくれたのか、答案を読んでいなかったのか。

地理学と心理学は普通の人のようで、話はつまらなかった。哲学は出ている学生も少なく、マイクなしに終始ぼそぼそ話すので聞いている学生もそう多くなかったようだが、聞き取れる場所まで言って聞いてみると、なかなか内容は面白かった。哲学を説明するには哲学的用語を使わないと説明が出来ない、というようなわかったようでわからない話を、聞こえないくらいの声でぼそぼそと言っているのがよかった。教えてやっているという高慢な姿勢はなく、聞いていなくても、淡々と自分の思ったことをしゃべる、そんな感じだった。一度だけ、黒っぽいコートを着た哲学的な顔のそこの君、と名指しで質問された。何を聞かれたかは覚えてないが、右端のいつも同じ席に座り、何も持たず、コートのポケットに手を突っ込んだままじっと見つめるように聞いている姿が目に映ったんだろう。

今と違って映像や画像や音声を使う人はいなかったので、100分間しゃべり続けるのは、結構難しかったはずである。内容が濃いか話し方がうまいか、そうでないと学生は話を聞こうとしない。そこは今も同じだ。

キャンパス全景(同窓会HPから)

ただ、世間や常識の枠内にいなかった私のような学生がいるのも困ったものである。40年ほど大学の授業を持って強く感じたのは、一般教養は大切である、だから、皮肉なものである。宮崎医科大学では教養の教官として採用されて、教養科目の英語の授業を持った。(→「宮崎医科大学 」、2020年4月20日)旧宮崎大学との統合では共通教育(一般教養)が目玉の一つだったが、教師も学生も一般教養を軽く見る傾向は実質的に変わらなかった。共通教育を持つ教員側は全学共同体制で出発したが、名ばかりの無責任体制、担当しても担当しなくても給料は同じ、従って科目数が増える筈もなく、学生の選択肢は極めて少ないままだった。内容が面白くなければ、学生も興味の持ちようがない。統合時、教養担当の会議にも出ていたので根本的に変える努力をすべきだったが、両学長が文部省に呼ばれて恫喝されたあと急発進した統合までの期限も一年半、全体の会議の他に入試の会議にも駆り出されて、共通教育まで手がまわらなかった。違う制度の擦り合わせは想像以上に手間と時間がかかる。共通教育は旧宮崎大学の制度をそのままま援用したが、職場の権利を主張する組合の強い大学の教員が作っただけのことはある、基本的に教師向けに作られていて、学生の方を向いていなかった。そこまでは手が回らず、申し訳ないことをした。

そんな思いもあって、統合後の共通教育の科目も、退職後の学士力発展科目も、可能な限りたくさん持った。半期で1000人近く、1クラスが500人を超えたこともあり、その時は、課題を読んで成績をつけるのに2か月もかかった。期限までに成績が出せないのではないかと心配しながら、せっせと課題を読み続けた。学生の頃に、世間の枠外にいて関われなかった償いの気持ちがあったのかも知れない。中高で意図的に、無意識に避けられてきた話題で、聞く側の自己意識に届くような内容を心掛けた。一方的にしゃべり続けるのではなく、聞き手の話にも耳を傾け、新聞や雑誌、映像や画像を目一杯使った。慣れないパソコンも使うようになった。視覚や聴覚にも訴えれば、ある日ぱっちりと眼を開き、聞いてる人が自らの足で歩き出すかも知れないと、ひそかに願っていたと思う。

宮崎に来た頃の宮崎医科大学(大学ホームページから)

次は家庭教師、か。

つれづれに

英会話

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

「第2外国語」(→「ロシア語」)と同じように、英会話も高校までなかったものの中の一つだった。4年生まで週に一回の割合で授業があり、担当者はすべて英語が母国語の人で、アメリカ人かイギリス人のようだった。ようだった、と言うのは、あまりにも英語に関心がなかったせいか、4人いた講師のうち、スキンヘッドで赤ら顔のアメリカ人とすらっとして顔立ちの端正なイギリス人の二人しか覚えてないからである。語学を志して、留学や進学や就職に英語が必要な人には、格好の実戦の場になったとは思うが。単位は必要だったので、聞かれたら答えはしたが、大抵は首を縦に振るか横に振るかだった。

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

スキンヘッドのアメリカ人は、専任か、非常勤講師かはわからなかったが、最初に同志社大学でも授業を持っていると言っていたような気がする。New Yorkをぬーよーくと発音していた。テキストのようなものはなく、終始雑談ばかりで、買い物好きな奥さんの愚痴が多かった。日本人向けに、ゆっくりとしゃべっていたので、大体の内容は理解できた、と思う。どうも夜間の学生を子馬鹿にしている感じが伝わって来て、どうしても馴染めなかった。一度だけ、あんまり馬鹿にせんといてや、という幽かな意思表示のつもりで、質問に答えたことがある。その人は、場所の言い方を演習させたかったようで、鳥取県はどこにあるかと聞いてきた。日本の西日本にあり、兵庫県の北西の方角の日本海に面した地域というのを英語で表現することを求めていたのはわかっていたが、私は島根県の隣とだけ答えた。もちろん島根県はどこ?と聞き返されて、鳥取県の隣と答えたら、むっとしていた。私の意図が伝わったんだろう。その場はそれで終わったが、そて以降当てられることはなった。

イギリス人はスコットランド出身だと言っていた。毎回みんなが揃うまで待ってから、授業を始めていた。あるとき、黒板一面にチョークで何かの景色を描いていた。ヨットが浮かんでいたような気もする。絵が得意だったのか、素敵な絵だった。スコットランドの風景だったかも知れない。学生がすべて後ろの方の席に座るので、いつも右端の真ん中あたりに座って学生の近くで向き合いながら話をしていた。ある日、前方の壁に机をぴたりとつけて、壁を見つめて座っていたら、にこっと笑って後ろに来るように手招きされた。どんな反応をするのかとそこに座ってみただけだったので、私もにこっと笑い返して、ゆっくりと後ろの席に移動した。

学校英語をやっても話せないという当時の一般の英語事情を反映してか、英会話は基本的に半分以上出席していれば単位が出る例外の科目だったようである。事務局で確認したわけではないが、卒業単位がほぼ満たされれば無理やり卒業させられることもあると小耳にはさんだので、5年目に専門科目の単位は取り終え、学割が使えるように、6年目は英会話だけ残すように工夫した。英会話は私のような学生にも、極めて有益な科目だったようである。

キャンパス全景(同窓会HPから)

次は一般教養、か。

つれづれに

紫木蓮(しもくれん)

白木蓮のあと紫木蓮が咲き出した。くっきりと鮮やかな白木蓮(→「つれづれに:白木蓮」、3月12日)とは違った趣があり、紫色の華には気品が漂う。

朝霧の家の庭に咲く花はそう多くなかったが、水仙が芽を出し、梅が咲き、沈丁花のにほいが漂ったあと、紫木蓮の紫の花が咲いていた。しもくれんとという呼び名も響きがいい。白い華の方はびゃくもくれんと呼んでいたが、ウェブではハクモクレンの方が多いようである。→「木蓮」

 →「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬~」4月

最初妻は花の絵ばかり描いていたが、木蓮もその一つでカレンダーにもなっている。絵に使う花や実を探すのは私の役目で、紫木蓮の枝も何回か頂戴した。いい枝が見つかってもらおうとしたが、ちょうど交番の前だった。それでも結局、頃を見計らって枝を何本か摘んで無事持ち帰り、カレンダーの表紙絵になった。↓

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」表紙(企業採用分)

「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬~」4月(企業採用分)

木蓮と玄風:「私の散歩道2013~犬・猫・ときどき馬~」3月

「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬~」表紙(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。個展にも出品して見てもらった。↓

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

妻の絵のブログ→「Forget Me Not」を作ってもらって以来、私が更新を続けている。私のホームページ→「ノアと三太」には元々訪れてくれた人の数を示すカウンターがついていて、訪問者数を確認出来た。2003年に授業用にホームページを作ってもらったあと暫くして、絵のブログも作ってもらった。退職したあと、再任用されたとき、更新し易く画像も簡単に入れられるようにと、授業用のブログを作ってくれた。長い間、せっせと書いて使い続けたご褒美だったようである。多くの学生がカリキュラムの改定のあおりを受けて、学士力難民が溢れ返った時から一年に4~5科目を持つようになり、利用者の数もぐんと増えた。半期に1000人以上持った年もあるから、その時はカウンターも3桁を越えていた。

あるときブログでもカウンターを見られるんやろかと聞いてみたら、検索エンジンを探してくれた。訪問者のIPアドレスまで確認出来る。知らなかったが、絵のブログには毎日20人前後の訪問者、100回ほどの訪問数があるようである。最も訪問数が多いのはアメリカ、次いでソ連、日本、ドイツ、中国、スウェーデン、次がウクライナ。戦時下に、サイトを訪れてくれているようだ。そのあとが、オランダ、ベトナム、フランス(以上10位まで)

それで絵のブログに英語訳を少しずつつけることにした。木蓮の英語を調べて見たら、木蓮、辛夷(こぶし)、泰山木(たいさんぼく)などのモクレン科は、一般にはすべて Magnoliaが使われていることが多いようだ。そう頻繁には使われないらしいが、もちろん個別の名前もあるし、学名もある。ただ、絵のブログの場合、絵があるので、少々名前の使われ方にずれがあっても、そう支障はないだろう、と思う。泰山木はMagnolia、白木蓮はWhite Magnolia、紫木蓮はPurple Magnolia、辛夷だけは学名を拝借して Kobushi Magnolia、それでいくことにした。

膨大な量なので、英語訳をつけるのも時間がかかりそう。カウンターで成果が確かめられれば、少しは励みになるかも知れない。道は、果てしなく続きそうである。

つれづれに

ロシア語

六甲山系が背後に見える木造2階建ての講義棟(同窓会HPから)

ロシア語を取ったのは入学後4年目である。大学でバスケットボールを再開してから近くの中学校でコーチの真似事をするようになり、そちらを優先して2年留年していたからである。

5回目くらいに初めて授業に出たら、受講生が私以外に二人、人数は申し分なかった。(→「第2外国語」、4月4日)当てられても素直に謝ったあとは黙っているつもりだったのだが、成り行きとは言え、最初から思いとはまるで違う方向に進んでしまった。

6時過ぎに少し遅れて入って来た担当者が、開口一番「京都産大の授業が終わったあと、名神高速を百キロ以上でぶっ飛ばして来たんだが。」と息せき切ってしゃべり始めた。どうやらロシア学科の専任らしかった。そのうち「私は世界的な学者で、名前も知れ渡っている。」と言い始めた。従って、私は忙しい、専任の教授だがⅡ部にも授業に来てやっている、それも世界的に有名な学者がである、だから少しくらい遅れても仕方ない、私にはそう聞こえた。偉くない人が偉そうにする、あれか。ひとことすみませんと言えば済むのになあ、そんな風に考えているうちに授業が始まった。当てられて、訳すように言われた。ひと月以上も経ってから、準備もせずに授業にのこのこやって来た、それがどうにも我慢ならなかったようだ。その通りだから、私としては謝るしかない。

「初めてですいません、やって来ていません」

「やって来てない?おまえ、昼間は何をしてるんだ?」

「昼間は、寝てますけど」

(授業から帰ったあとも興奮して寝られずに夜中じゅう起きて本を読んでますので)を、意図的にとは言え、省いたのがよろしくなかったらしい。夜中じゅう起きてるんやから、昼間寝んともたんやろ。

「若いのに、惰眠を貪るとは何事か!」

烈火のごとく怒り始めた。ここで止めればよかったが、ぷいと壁の方を向いた。火に油を注ぎたかったらしい。怒りは収まらず、怒鳴り続けていたようだった。次の時間からが、大変だった。

大人数だと避けようもあるが、3人だけである。初回のこともあるし、自分で責任を取るしかない。購読?どこまで進むかわからないけど、準備するしかない。母音の数が13もあるみたいやし、格の変化も煩雑そう、言われっぱなしも癪に障るし。準備に毎回何時間もかかった。根に持つとは相手も大人げない、授業ではいつも喧嘩腰で、細かいことろまで質問して来る、初修やねんから、そんなとこまで知らんやろ。二十数回も続いた。最後のころ、冬場だったと思うが、授業前にいっしょに授業を受けていた女子学生が二人、揃って私の席までやって来た。

「またやってもらえませんか?」

「?」

「あのう、最近やってくれはらへんので、進むのが早くて、早くて。このままやったら、試験範囲がどんどん広がって試験の時に大変そうなんで、またやってくれませんか?」

事務局・研究棟への階段(同窓会HPから)

毎回毎回体力を消耗し、必要以上に気も遣ったが、授業はなんとか終わった。単位は無事取ったものの、あまり後味はよくなかった。のちに早稲田の博士課程の試験に第2外国語が要るのがわかって、ロシア語も考えたが、役に立ちそうになかった。結局、フランス語で受験した。

ロシア語の人の話を書いていると、無意識のうちの自分の思い上がりを思い知る。市立大学の教員は地方公務員で、公務員は全体の奉仕者である。人の税金で給与をもらっているので、「専任だが夜の授業もしてやっている」は思い上がりである。自分がいるところに学生が来ていると思っているのかも知れないが、学生がいるから職にありつけているのだけだ。勘違いも甚だしい。そういう人は教えてやっていると思って疑わないのかも知れないが、たかだか第二外国語の購読である。教えてもらわなくても、自分で出来る。概ね、教師がやれることは知れている。生得的な能力に僅かな刺激を与えてその能力を引き出すきっかけを作るくらいにはなっても、それ以上でも以下でもない。そもそも、人が人に何かを教えられるなんて考えること自体がおこがましい。そうわかっていながら、時間と手間をかけて授業の準備をして資料を配り得意げに授業をすると、何だかやったような気になってしまう。たかが英語教師で、学校を出れば、ただのおっちゃん、今はただのおじいちゃんなんやから。

次は一般教養、か。

旧暦では、春分から数えて15日目頃、今年は今日4月5日が清明の始まり、清らかで生き生きとした様を表わす「清浄明潔」を略したものらしい。宮崎では散りかけているが、桜の季節でもある。白木蓮も終わり、紫木蓮が咲き始めた。

紫木蓮が咲き出した