つれづれに

 

イリス

植え替え後に、また咲いてくれたイリス

イリスが咲き出した。一昨年に植え替えた後一つも花が咲かなかったので心配していたが、今年は咲いてくれてほっとしている。花にはそれぞれ特有の性質がある。水仙は球根を植えても花が咲くまでに数年かかり、花が咲かない場合もある。山から根ごと持ち帰って植えた通草(あけび)は実をつけるのに、六、七年もかかった。イリスも植え替えて馴染むまでに、歳月が必要らしい。

通草

植えて見事な花を咲かせてくれていた牡丹の樹が一本枯れ、また一本枯れて、最後の一本も怪しくなったので、同じように陽当たりのいい場所に植え替えた。元々陽当たりのいい通路の一部に庭の真砂土を入れて牡丹を植え、その周りにイリスを植えていた。牡丹の植え替えのついでに、イリスも植え替えたのは、その場所も含めてレタスを植える畝を作るためだった。冬場は隣の家や金木犀の垣根の陰になるので畑の南半分は陽が差しこまない。陽の当たる場所は限られるので毎年同じ所に植えていたら、数年前から根ごと腐ってしまうことが多くなった。新たな陽当たりのいい場所が必要になって思いついたのが、牡丹とイリスを植えていた通路だったわけである。庭の中でも南向きの居間に一番近く、陽当たりも一番いい。庭との境の通路には砂利が敷いてあったので取り除き、その下の庭用の真砂土も取って肥料と畑用の新たな土を入れたのである。作業にだいぶ時間はかかったが、予想通りレタスの出来はかなりいい。

レタス

諸々の要因で植え替えたのだが、球根のイリスが植え替えた翌年に花が咲かないとは思わなかった。3月の終わりに牡丹を買いたいと思い、宮崎神宮外苑で開催されいた春秋恒例の植木市に出かけた。(→「植木市と牡丹」、3月31日)そのとき店にいた女性から、木陰に植えて下さいねと言われた。牡丹は陽当たりのいい場所に植えたらあかんかったんや。牡丹に悪いことをしてしまった。陽当たりのいい所が一番と信じて疑わなかった素人考えが、そもそも間違っていたのだ。植木に限らず、こういったそもそもの間違いは、多そうである。

イリスも宮崎に来て妻が最初に描いていた花の一つで、大分の個展にも出して見てもらい、カレンダーに誘ってくれた長崎のオムロプリント(→「クリカレ(Creators’ Power Calendar)」)の営業努力のお陰で、長崎の企業がカレンダーに採用してくれている。

イリス

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

「私の散歩道2014~犬・猫・ときどき馬」6月(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2022年)」もどうぞ。

植え替え前のイリス

つれづれに

つれづれに:コーチ

通った高校(高校のホームページから)

社会活動を最優先して運動クラブには入らなかった高校時の反動もあって、大学では運動クラブに入ると決めていた。幸い、バスケットボール部で昼間の人といっしょにやれることになった。(→「運動クラブ」、3月29日)

キャンパス全景(同窓会HPから

体育会系特有の理不尽さもなく、月水土の2時間は実力のある先輩とプレイができて大満足だったが、5年近くブランクがあったせいか、もう少しどこかで練習がしたかった。それで、近くの中学校にでかけた。シュート練習が出来ればいいが、くらいにしか考えていなかったが、いつの間にか混ぜてもらっていっしょに練習もするようになっていた。5つ年下の弟がいる3年生が主体のチームで、試合を見に来て下さいと言われて出かけたら、顧問の人からベンチに入って下さいと頼まれた。顧問が熱心で強いチームもあったようだが、そのチームの顧問は名前だけで、気が付いたらコーチまがいのことをやるようになっていた。男子チームが早々に負けてしまい、同じ体育館で練習していた女子チームの試合にもついて行くように言われ、練習もいっしょにするようになった。

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

3年生のチームは夏までで試合が終わる。私の時も7月早々に市内大会で負けて試合が終わり、引退した。一年生の終わりに2年で主力になる予定の同級生が二人突然辞めた。事情は知らないが、親の影響が強かった気がする。一人は親が開業医で、朴訥だが背は高くチームには必要だ思っていた。もう一人も家が資産家のようで、シュートが一番うまく、リーダーシップもありそうだったので、主将をやってくれると思っていた。どちらも進学のための受験勉強を辞める理由にしていたが、理由は他にあったのではないか。高校でいっしょになった。辞めてからは話をしていないが、高校でも受験勉強はしているようだった。二人が抜けてどうしようと思っていたら、背の高い同級生が入って来た。怒りっぽくて、よく喧嘩もしていたようだった。癖はあったが、何とか最後までコンビを組んだ。しかし、もう一試合勝てば市内の代表の一つとして次の大会に出られるところで、負けてしまった。最初からいっしょにやっていた二人が途中でやめて、早い時期に主将をやらされたうえ、最後の試合にも負けて、不消化のまま終わってしまった。

僕と同じように、同じ進学校に行ってクラブ活動をしていない年上の人が時々練習に顔を出して見てくれていたが、試合当日は授業があったのでベンチには座れずに、来てくれたときは試合が終わったあとだった。負けたことを話したら、何も言わずに悲しそうな表情を見せていた。まさか、少しあとで、私自身が同じようにベンチに座るとは、その時は思いもしなかった。

男女のチームの練習に1年半ほど参加し、試合にも帯同した。一年目は7月までの短い期間、2年目は丸一年間、かなりの時間を割いた。一年目は大学紛争のどさくさで何とか単位を取って二年にはなっていたが、二年目はほとんど授業に出なかったので、留年をした。練習後に急いでも、授業には出られなかったからである。家庭教師を頼まれてから、時間的にも責任を持てそうになかったので牛乳配達はやめていたが、経済的には苦しかった。2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った記憶がある。

練習に混ぜてもらっているうちに試合にも行き、ベンチにも座るように言われてコーチのまねごとをすることになったが、チームの人にとってよかったのかどうか。本来は教員がすべきことを代わりにやることが生徒にとってよかったのかどうか、そんな本質的な疑問である。後に教員になり、今度は顧問として生徒とかかわるようになるとは、不思議なものである。

次回は、家庭教師2か。

庭のイリスが咲き出した

つれづれに


藤とポピー

宮崎に来た当初、妻が絵に描く花を私が探しまわったが、花は豊富だ。とくに春はあちこちに花が咲いて、集めるのに忙しかった。舗道が整備された都会では、野の花はだいぶ遠くまで行かないと手に入らない。→「藪椿」(3月2日)、→「白木蓮」(3月12日)、→「植木市と牡丹」(3月31日)、→「紫木蓮」(4月6日)

菫(すみれ)、たんぽぽ、きんぽうげ、郁子(むべ)や薊(あざみ)など、春は実に多彩だ。今はきんぽうげが盛りを過ぎ、郁子(むべ)や薊が咲き始めている。

郁子:「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」3月(企業採用分)

三月になると加江田の山がうっすらと山桜でピンクがかる。今は少し紫がかっている。山藤だ。

山藤

宮崎に来て初めて身近で山藤を見た。ごっそりと切って肩に担いで持って帰り、山藤が咲いてたでと得意げに花瓶に生けたまではよかったが、すぐにぱらぱらと散ってしまった。目の前で見て描くには適していなかったのである。それで、藤棚の藤をこっそりともらうようになった。公園や学校、神社や寺には藤棚を拵えているところも多い。材料には事欠かないが、多少は気が引ける。夜中に忍んで採って来たこともある。表紙絵やカレンダーになった。個展のポスターにも使った。世界のあちこちで絵のブログ(→「Forget Me Not」)を見てくれているようなので少しずつ英語を併記しているが、藤はWisteria、マメ科フジ属のつる性落葉木本の山藤はSilky Wisteria、学名はWisteria brachybotrysだそうである。

小島けい「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月(企業採用分)

「小島けい個展 2009に行きました。」(2009年9月25日)

小島けい「私の絵画館」の「藤とココちゃん」:「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月

2010年小島けい個展用のポスター

「藤」もどうぞ。

この辺りにはけし(栽培種の一つ?)が道端に咲いている。自生というより、花の種が飛んで、毎年あちこちに咲いている感じだ。日本語の芥子(けし)は英語のpoppy(ポピー)と同じ意味らしい。poppyはイギリス各地で自生し、園芸種としても栽培されているようだ。たぶん、道端でみかけるのはケシ科の一年草の園芸種の一つのようだ。道端で見かけるけしも栽培種のポピーも、カレンダーや本の装画になっている。

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」3月

「私の散歩道2010~犬・猫・ときどき馬」表紙(企業採用分)

「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2021年)」もどうぞ。

田上二郎『神のいない三つの部屋』(1997/4/5)

「ポピー」「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」 もどうぞ。

つれづれに

家庭教師1

木造2階建てだった中学校(同窓生のface bookから)

ある日、家庭教師を頼まれた。3軒東隣に住む中学生の母親からだった。父親は何人かを雇って塗装業をしていて、毎日何人かをバンタイプの車に乗せて仕事に出かけていた。3人とも栄養が足りていたのか同じような体形で、ふっくらとしていた。母親は八百屋をやっていて、毎日かいがいしく働いていた。家族7人の食事を作ることもあったし、自分用にも買う必要があったので、よく八百屋には顔を出していた。母親は明るい性格で、客とは気軽によくしゃべっていた。私は挨拶を交わす程度で、特段しゃべったことはないし、何かを聞かれたこともない。

ある日、母親が家に来て「中学校1年生の息子に英語の家庭教師をお願いしたい」と言った。私は引き受けた。大学のための受験勉強はしなかったし、夜間課程に通っているので、何をどうするかや時間的なことも少し心配したが、中学1年の英語なら、何とかなるやろ、それにこれはアルバイト?という軽い気持ちだったように思う。

私が受験勉強もせず諦めて夜間課程に通っていることを母親が知っていたかどうかはわからないが、中学生の母親にとって、自分の息子が行けたらという希望もあって、私が地元の進学校を出ている、ということが大切だったのかも知れない。考えてみれば、牛乳配達をしていた区域で同じ高校に行った同級生は二人だけだったから、その母親の知り合いの間では、私は勉強が出来る生徒の一人だったのかも知れない。

近くの川の河川敷

週に一回、相手の家に通うことにした。息子はわりとぼんやりした一人っ子だった。本人が望んでいたのか、母親に押し付けられたのかは聞きそびれたが、勉強することがそう嫌でもなさそうだった。今から思えば、初めから相手が挫けそうなことをずけずけ言ったような気がする。あんまり頭よさそうには見えんけど、まあ、どっちでもええわ、始めよか、そんな始め方だった。その当時、私の環境では塾や家庭教師は別世界の話だったから、自分が家庭教師をするとは思ったこともなかったし、勉強は自分でするものという基本の部分は変わらなかったが、お断りしますとも言えなかった。

家から見えた紡績工場

経験はなかったが、中学校や高校の英語は意外とやりやすかった。範囲が少ないのでテキストを一冊さっとやって繰り返しながら、2年生、3年生のテキストも進める、次回までにここまでやっときや、これだけは覚えときや、その繰り返しだった。覚えてないときは、あほか、と言い残して帰ってしまったこともある。1か月ほどでテキストを終え、次のテキストをやり始めた。本人にとっては学校のペースとだいぶ違っただろうし、その間に、たぶんごちゃごちゃと色んなことをしゃべりまくられて、頭が混乱したかも知れないが、その人にはその方法がよかったらしい。

ある日、合間に菓子と茶を運んで来たときに、母親が言った。

「せんせい、この前100点取りました、ありがとうございました」

母親がいなくなったとき、本人に「へえ、100点取ったんか。よかったやん」と言ったら、まんざらでもないような照れ笑いをしていた。100点がよほど自信になったのか、暫く経ってからまた母親が来て「数学も100点だったんですよ、ありがとうございました」と言い、もじもじしながら、「あのう、他に何をしたらええんでしょうか、どんな本を読んだらええか、教えてもらえませんか?」と付け加えた。

本?立原正秋とも言えんしなあ、しゃーない、「日本文学全集でもどうですか」

「ガクブンゼンシュウ?そうですか。じゃあ、ガクブンゼンシュウを買ってみます」

今更言い直されへんもんなあ、と考えている間に母親はいなくなった。

それからしばらく経って、足元を見て母親に提案をした。

「あのう、毎日朝学校に行く前に一時間ずつやりますから、一万円にしてくれませんか?」

母親はしばらく黙り込んだあと「考えてみます」と言っては部屋を出て行った。結局、翌月から朝一時間、一万円になった。授業料が年間12000円だから、破格の値段である。そんなに金に執着していたわけではなかったが、夜間課程の学生がこなせる許容量を超えるほどの家庭教師を頼まれるようになっていたからである。

近くの川にかかる橋

その人は、私と同じ進学校に行ったらしい。一度「思うように成績が伸びないのでまた家庭教師をやってくれませんか」と頼まれたが、思わずなっていた高校の教員の仕事が手一杯で、詳細も聞かずに断わった。その後、医学部に行って医者になったと人づてに聞いた。私自身も就職したのだから人のことは言えないが、生きていると何が起こるかわからないものである。受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが、これで何とか30くらいまでは持ちそうと、少し気持ちに余裕が出来たことは確かである。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

通った高校(高校のホームページから)