続モンド通信・モンド通信

続モンド通信12(2019/11/20)

 

私の絵画館:「アフリカの犬」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記:「4回目8月1日」(小島けい)

3 『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「アフリカの犬」(小島けい)

この絵には元になった絵があります。

そこに犬は登場していませんが、<土壁の家の窓から外を見ている女性>の絵です。

もうずいぶんと昔。私が神戸で伊川寛という先生の教室に通っていて、まだ油絵を描いていた頃。当時は、教室以外では、描きたいものを描きたい大きさで描いていました。そのために美しい瞳が印象的なアフリカの女性を、30号の大きなキャンバスに油絵で描きました。

最近では、飾る場所も考えて大きさを決めますが。確かに30号の絵はどこにでも置くわけにはいかず、明石の実家に住んでいた時は、玄関にドン!と置いていました。

そして宮崎に来てからは、借りていた家に置き場所はなく、大きな壁がある相方の研究室に置いてもらっていました。

最近<ジンバブエ日記>を書くようになり、ふとこの大きな絵を思い出しました。開けられた窓の下を、私たちがアフリカで借りた家にいた犬<デイン>のような犬が歩いている完璧な<番犬>だったデインではなく、もっと優しげな犬です。アフリカの日常に、なにげなくあったような風景となりました。

ちなみに<デイン>の犬種は、ずっとわからないままでしたが、ケニアの保護区で密猟を取り締まるために活躍している<ブラッドハウンド>ではないか。最近見た映像から、そんなふうに思っている最近の私です。

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2 小島けいのジンバブエ日記:「4回目8月1日」(小島けい)

8月1日(晴れ) ゲイリーの家族来宅」

「小島けいのジンバブエ日記」の4回目です。

ゲイリー

 庭番のゲイリーは背の高いショナ人です。給料は番犬のえさ代よりも安いのですが、敬虔なクリスチャンの彼は全く不平を言わず、そして正直です。

ゲイリーとデイン

 その彼の家族が、冬休みを利用してやって来ました。ゲイリーはガレージの裏のベッドも何もない部屋に住んでいますが、家族が一緒に暮らすことのできる貴重な日々を、彼らは遠慮がちに楽しんでいました。

ゲイリーと家族

 奥さんのフローレンスはほっそりとした美人です。私はさっそく絵のモデルを頼みました。娘と息子は、それぞれ同年齢であるウォルター、メリティー、そして末っ子のメイビィと仲良しになり、毎日朝から日暮れまで、兄弟のように遊び続けました。

フローレンス(小島けい画)

 肌の色も言葉も違う五人の子供たちが、大きなジャカランダの木の下を走り回り笑う様子は、外の白人と黒人の格差、対立をしばし忘れさせるほど、平和で美しい光景でした。

五人の子供たち

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3 『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―(玉田吉行)

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

解説

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985)はアパルトヘイト反対闘争の中で『まして束ねし縄なれば』(And a Threeford Cord, 1964)を書きましたが、その物語はラ・グーマの文学的な技法に裏打ちされて、すぐれた文学作品として高く評価されています。そのラ・グーマの文学的な技法のうち、雨の象徴性と擬声語の効用について書きました。

平成30年度~ 令和3年度に科学研究費(基盤研究(C)、4,030,000円、)を交付されているテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の一環です。

本文

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1 アングロ・サクソン侵略の系譜

2 アレックス・ラ・グーマ

3 『まして束ねし縄なれば』

4 雨の象徴性

5 擬声語の効用

6 ラ・グーマの思い

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1 アングロ・サクソン侵略の系譜

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985)はアパルトヘイト反対闘争の中で『まして束ねし縄なれば』(And a Threeford Cord, 1964)を書きました。その物語はラ・グーマの文学的な技法に裏打ちされて、すぐれた文学作品として高く評価されています。ここでは、ラ・グーマの文学的な技法のうち、雨の象徴性と擬声語の効用について書きたいと思います。

And a Threeford Cord, 1964(東ベルリンのセブン・シィーズ社版、神戸市外国語大学国人文庫所有)

アメリカの作家リチャード・ライト(1908-1960)の作品を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めた時、その人たちが主に西アフリカから連れて来られたと知り、自然にアフリカに目が向くようになりました。「アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易とライト」を皮切りに、「ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ」、「南アフリカの歴史とラ・グーマとエイズ」、「エボラ出血熱とコンゴ」、「ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ」と、テーマが広がり、それぞれ10年くらいずつ個別に辿ってきました。

リチャード・ライト(小島けい画)

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

ラ・グーマ(小島けい画)

グギ・ワ・ジオンゴ(小島けい画)

そこから見えて来たものは、アングロ・サクソン系を中心にした今も続く欧米人の傍若無人な歴史と、その中で踏み付けられ、傷つけられてきた多くの人たちの姿でした。定年退職で途切れるかと思いましたが、「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で科学研究費を申請して交付されたのを機に、広範で多岐にわたるテーマですが、今暫く手探りを続けようと思っています。

アンゴラの一風景(『まして束ねし縄なれば』表紙の原画、小島けい画)

元々文学作品を理解するために歴史を辿りましたが、今回は逆にアングロ・サクソン侵略の系譜の中で、アフリカ系アメリカ、コンゴ、ケニア、南アフリカの作家が書き残した英語による文学と、エイズとエボラ出血熱という感染症を軸に、その侵略の基本構造と、その中で呻吟する人々の姿を文学と医学の狭間から見てみようと思っています。『まして束ねし縄なれば』は、アングロ・サクソン系のイギリス人とオランダ人がそこに住んでいたアフリカ人から土地を奪って作り上げた南アフリカのアパルトヘイト体制の下で、奪われ虐げられた側の一人、人権を否定され続けたラ・グーマが書き残した秀作です。

2 アレックス・ラ・グーマ

ラ・グーマは1925年にケープタウンに生まれました。母方はオランダ系とインドネシア系、父方はインドネシア系とドイツ系の血を引いていましたので、アパルトヘイト政権の下では「カラード」と分類され、ケープタウンの「カラード」居住地区「第六区」で生まれて育っています。父親が反対闘争の指導者でしたので、早くから社会に目を向け、のちに「ケープカラード」200万人の指導者になりました。父親の影響を受けて文学にも関心を持ち、文才が認められて反体制の週間紙「ニュー・エイジ」に記者として採用され、多くの記事を残しています。

「第六区」

(担当した「ニュー・エイジ」のコラム欄Up My Alleyの記事)

アパルトヘイト反対闘争の中心組織ANC(アフリカ民族会議)とSACP(南アフリカ共産党)の指導者だったラ・グーマは体制の脅威で、出版活動も禁じられ、当時逮捕・拘禁されていたために、最初の作品『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)は国外で出版されています。1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていて、原稿を一年間郵便局に寝かせておくように妻のブランシに指示してから拘置所に赴きました。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアーの手に渡り、国外に持ち出されて世に出たと言うわけです。

(ブランシ夫人と家族いっしょに、1992年7月亡命中のロンドンの自宅で)

A Walk in the Nightの発行禁止を伝える「ニュー・エイジ」の記事)

命も狙われ、何度か投獄され、1966年にはロンドンに亡命も強いられました。その後、ANCの代表として外交官待遇でソ連とキューバに正式に迎えられ、国外からアパルトヘイト反対の闘争を継続しましたが、1985年にキューバで急死しています。

南アフリカ国内ではケープタウンの「カラード」200万人の指導者として中心的な役割を、亡命後も継続して指導者として国外からの反アパルトヘイト運動の中心的な役割を担いました。その闘争のさなかに、新聞記事や物語を書きました。そして、奇跡的に日の目を見た『夜の彷徨』は世界の人の心を打ちました。

3 『まして束ねし縄なれば』

『夜の彷徨』の高い評価を受けて「何か」を提供して欲しいという東ベルリンのセブン・シィーズ社からの要請を受けて、ラ・グーマは2作目『まして束ねし縄なれば』を書きました。執筆の一部や出版の折衝、契約なども刑務所内で行なわれていますので、文字通り鉄格子の中から世に送り出された作品です。

ラ・グーマが提供しようとした「何か」は、ケープタウンにすむ普通の人たちの日常生活でした。生まれ育った南アフリカはヨーロッパ人入植者に侵略され、そこに住む人たちは土地を奪われて安価な労働力として農場や鉱山や工場や白人家庭でこき使われました。入植者たちは人種差別を最大限に利用して労働賃金を極力抑え、「先進国」と協力して、豊かな富を貪り続けてきました。

政府は外国人観光客を誘致するために、動物保護区、豪華な夜行列車、整ったゴルフ場や海岸線などのきれいな「南アフリカ」を宣伝しました。表面上はアパルトヘイト反対の姿勢を取りながら、アパルトヘイト政権と密な関係を持ち続けた日本政府に「認可」されて東京に事務所を持っていた南アフリカ観光局 (South African Tourism Board) は日本人の観光客を誘致するために、美しくすばらしい「南アフリカ共和国」を強調する写真入りの美しい装丁のパンフレットやビデオなどに多額の宣伝費をかけていました。

ケープタウンのテーブルマウンティン(南アフリカ観光局のパンフレット)

しかし宣伝とは裏腹に、大抵の人は劣悪な環境のスラムに住まざるを得ませんでした。1984年から3年余り、記者としてヨハネルブルグに在駐した伊高浩昭氏が『南アフリカの内側』の中で書いたスラムです。

白人政府は1955年、ケープタウンを中心とするケープ西部の商工業地帯を、カラード雇用優先地域に指定した。雇用主は、カラード労働者を補充できない場合に限って黒人を雇うことが認められた。この地域での黒人用住宅の建設は同年、中止された。

それから20年後の70年代半ばには、20万人を越える家のない黒人たちがケープタウン郊外に住みついていた。この事実を背景にして、81年に「不法居住者」問題が改めて浮き彫りになった。

ケープタウンの東方20キロの荒地に、ダンボール、ナイロン、トタン、木の切れ端などで掘立小屋が立ちはじめた。小屋はキノコのように次々に現われ、いつしか荒地を埋め尽くしてしまった。81年7月のこと、荒れ地の名はンヤンガ。

ラ・グーマは世界に実際の南アフリカを知ってもらうために、日常世界の舞台として、ケープタウン郊外のカラード居住区のスラムを選びました。それはアパルトヘイト体制の下で「カラード」と分類された作家だからこそ出来たことです。次のインタビューからラ・グーマの真意が汲み取れます。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。

『まして束ねし縄なれば』の主人公の家族が住む「家」は次の書き出しで始まります。

ポールズ一家の父親は、ずっと以前にその家を建てた。ポールズ一家の母親と一緒に、田舎から都会に流れてきたときである。母親はすでにキャロラインを身ごもっており、ロナルドは洟垂(はなた)れ坊主で、怪我をした仔犬のようにくんくん泣きながら母親のスカートにまとわりついて離れなかった。父親はその土地を借りていた。土地は荒れた砂地を幾つかに仕切っただけの、がらんとして何もない空き地の一つだった。ちょうど、そのころ、高速道路から脚のように延びた土地に、ぶつぶつと出来物のようなぼろ小屋が立ちはじめ、たくさんの人びとがひしめき合って住みつくようになってきたのだ。(中略)

父親とチャーリーは、家の材料をごみの中から探しだしたり、人に頼んでもらい受けたり、暗い夜に盗んだりした。錆びた波型鉄板や厚板や段ボールの切れ端、それにこんな物がと思われるような意外ながらくたも、一つ残らず、何キロも引きずって持ってきたのであった。横に石油会社の名前が入ったぺちゃんこにした灯油の缶と、チャーリーが集めたがらくたから引きぬいて石の上で金槌(かなづち)を使って真っすぐにした古釘の一入った缶があった。また、割れ目や穴に詰めるぼろ布、何本もの荷造り用の針金と防水紙、紙箱、古い金属片と針金の束、荷造り用木箱の横面の木、それに線路の枕木が二本あった。

アパルトヘイト政権の下でASIAN, COLOURED, BLACKと分類された人々の大半は『まして束ねし縄なれば』に描かれたようなスラムに住んでいたのです。

4 雨の象徴性

ラ・グーマは、聖書の伝道之書第4章の9節から12節の中の「二人は一人にまさる・・・・人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」の「三根の縄」(a Threefold Cord)になぞらえ、厳しい環境の中でも何とか助け合って生き延びる家族の日常を描いてみせました。子供たちと夫に尽くし続ける母親、家族のために働き、家族を思いながら死んで行った父親、生来の楽天的性格で陰ながら両親を支え、思いやるチャーリー、そんな親子の関係を通して、ラ・グーマは「三根の縄」の貴さを見事に描き出しています。

助け合う家族の姿をさらに印象づけるために、冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を持ち出しました。

『夜の彷徨』でラ・グーマは、夜と黒のイメージを使って第6区の抑圧的雰囲気を醸し出しましたが、この作品では惨めなスラム街の雰囲気を作り出すために、雨と灰色のイメージを利用しました。

A Walk in the Night, 1962(ナイジェリアのムバリ出版社版、神戸市外国語大学国人文庫所有)

ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからです。次のインタビューからそんなラ・グーマの真意が汲み取れます。

暫く前に、なぜいつも私が南アフリカの天候について書くのかと尋ねられました。たぶん、1つには天候がその雰囲気を作り出す役割を果たし、実情などを描き出す助けとなっているからです。又、この国がとてもすばらしい気候の国だという政府の観光宣伝を海外の人が信じているという事実もあるからです。私にはその気候を南アフリカの1特徴として使えたらという考えもありましたが、同時に象徴としての可能性から見て、最も南アフリカ的なものにしたい、或いはしようとする考えもありました。言い換えれば、私は自然美を謳う政府の観光宣伝とたたかい、美しいゴルフ場だけが南アフリカのすべてではないことを世界の人々に示そうとしているのです。

ケープタウンの海岸線(南アフリカ観光局のパンフレット)

ラ・グーマは物語を雨で始め、雨で終えています。しかも、主題に係わる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包み込んでいます。まえがきでバンティングが言うように『まして束ねし縄なれば』は「ケープの冬の湿り気と惨めさに濡れそぼり、その灰色と佗しい色調をラ・グーマは一連の絵画的、散文的銅版画」10で捕えています。

<第1章遠景>

山々を背景にひかえ、海に面した町の遠景から先ずラ・グーマは書き始めます。次に映画のクローズアップ手法さながらに、国道や鉄道線路脇のスラム街をゆっくりと写し出して行きます。

南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせます。最初は細やかな霧雨が地面に湿り気を与えるだけですが、雨はやがて本降りとなり、見渡す限り灰色の世界が広がります。ラ・グーマは次の言葉でその冬景色を語っています。

太陽は遮られてどんよりした灰色の世界が広がり、昼には不似合いなじめじめした薄明かりがさしていた。雨は突然の烈しい風で再び始まり、断続的な大粒の雨でその世界を垣間見せた。それから、雨脚は次第に一定となり、容赦ない本降りの雨となる。それは灰色一色の世界だった。(1)

あくまでも静かな書き出しです。第1章には音に関する表現が殆んど見当たりません。殊に、全体を通してあれほど多く使われている擬声語が皆無です。視覚に焦点を置き、特に雨の灰色のイメージをラ・グーマはまず読者の心に植えつけたかったのでしょう。それはまさしくこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴しています。しかも、climbing battlements(聳[そそ]り立つ銃眼つきの胸壁)、a rough wall of mortar(粗あらい、モルタル塗りの城壁)、marched(行進した)、commanded(指令されて)、ramparts(塁壁)、held at bay(寄せつけない)、harried (繰り返し攻撃した)、flank(側面)、The high, grey-uniformed fog(灰色の軍服を着た濃い霧)、breaches(突破口)、assault(襲撃する)、retreating(退却しながら)、intermittent([戦闘などが]断続的な)など、軍隊で使う用語を意図的に多用しています。

「鉛色に垂れこめた雲の群れが、強風の指令に従って、大西洋の方から隊列を組んで進入し、空を横切り、城壁のような山なみに向かって、痛めた足を引きずりながら、のろのろと行進していった。・・・雨は海岸線だけを集中的に攻撃し、ぎざぎざ型に突き出た岬とばりの上空に雨の帳が垂れこめた。側面の雨は海に降り注いだ。灰色の軍服を着た濃い霧が山なみをおおって、空やほかの世界からは見えなくなり、やがて何か不吉な前ぶれのように、地上はいちめんの霧に包まれた。」(1)などの表現が、無防備なスラムの住民が軍隊の容赦ない攻撃を受けているような感じを漂わせ、雨が住民を苦しめる存在の象徴として描かれています。

<雨・雨・雨>

父親の臨終、警察の2つの手入れ、キャロラインの出産、ロニーのスージィ惨殺など、主だった事件ではすべて雨が降っています。例えば、フリーダの小屋の手入れやキャロラインの出産では、雨がフリーダや子供たち、またキャロラインの、それぞれの不安を助長する一因となっています。そして、裸同然の姿で引き立てられて行く場面、スージィ惨殺の場面においては、状況の苛酷さが雨によって増幅されています。

<終章小屋>

第2章と同じ書き出しで始まる第28章もやはり雨で終わります。灰色の世界です。火事で2人の子供を亡くしたフリーダを今は亡き父親のベッドに休ませて、母親とチャーリーがやさしく慰めます。外では烈しい嵐が吹き荒んでおり、その様子をラ・グーマは次のように描きます。

雨は土台を掘り起こし、表面の土をさらった。そして継目が口を開け、外の壁が騒々しい音を立てた。家はたわんで倒れそうになり、歪んだひし形に形を変えた。雨は庇のところで、ゴボゴボ、ブクブタ、タツタツと音を立て、天井に沿って水銀のように流れた。下では、貧しい人々が吹いて缶に火を起こし、容赦ない雨のなか、悪寒に震えてうずくまり、歯をガタガタ鳴らせながら、肩を寄せ合って暖を取った。(109-110)

吹き荒ぶ外の嵐はアパルトヘイト体制を死守する白人政権の暴挙を連想させ、土台を掘り起こされ、倒れそうになりながらも嵐に耐える小屋の姿は、白人でない人々の社会的立場を暗喩しています。その小屋の中で寒さに震えながら肩を寄せ合って暖を取る光景は、アパルトヘイトの嵐の中で何とか生きのびている南アフリカの人々の姿の象徴でもあります。ラ・グーマは雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者の感性に迫っています。

5 擬声語の効用

<第2章小屋>

チャーリーは雨の音に起こされます。第1章とは対照的に音に関する表現が多く使われています。自然音を模した擬声語が書き出しだけでも、ヒュッ (hissing)、パラッ (rattling)、ドオッ (roar)、ポトポト (drip-drip)、ポツポツポツ (plop-plop-plop) などと多彩です。雨が小屋に当たって様々な音を発するからです。小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられており、錆びたトタン板や石油缶、段ボール紙などから出来ています。瓦屋根の家なら余程の雨が降らない限りそれほど音はしません。つまり、雨の音は小屋の貧しさの象徴なのです。

雨脚が弱ければその音はポタッやポトッですが、ひどくなればポタ、ポト、ボタ、ボトにかわます。チャーリーが雨漏り水を缶に受ける一光景です。

チャーリーは天井から落ちて来る雫の下に缶を置いた。ポツポツ (plop-plopping) が金属に当たることで、突然小さなバシャン (rumbling) に変わり、次第に鈍いポトン (tinkling) になった。(5)

3つの擬声語に含まれる流音r, lは雨漏り水の流れ落ちるさまを、plop (ポツ) の2つの無声破裂音pは雨水が床に当たる澄んだ階音を、rumbling (バシャン) の有声破裂音bは缶の中にこもる軽い金属音の感じを、tinkling (ポトン) の無声破裂音kは缶の中に溜った水の表面に雨水が落ちる際に発するリズミカルな快音をそれぞれ言い写しています。又、語尾の鼻音-ngはその音が余韻を残して響く様子を、更に別の鼻音 [m]、[n] との繰り返し音 (rumbling・tinkling) は、その音の短い楽音的な響きをうまく言い当てています。家族がまだ眠っている静かな部屋の中では、それらの響きがより広がりと余韻を持ちます。3つの擬声語は短いながら、室内のそんなイメージを伝える働きをしています。

風が烈しくなれば、雨の音も大きくなります。同じ章の別の光景です。

外では風が再び烈しくなり、小屋に雨を叩きつげ、暫くの間トタン板にバシャ(rumbling) という音がした。それから風向きが変わって風は止み、それまでのパラッ (rattling)、ポタッ (tapping) という低い音が消えた。(4)

Tap (ポタッ)には元来「そっと打つ」という含意がありますから「低い」がなくても風の弱かったことはわかりますが、この場合、rumbleとrattleの強弱、清濁の対比的使い方が印象的です。雨の流れるさまを象徴的に示す両鼻音r, lにはさまれたmbとの対比です (rattling・rumbling)。

烈しい風が雨を小屋に叩きつける濁った鈍い音と弱い風による小さな雨の澄んだ軽い音の差を、余韻を残す鼻音mと濁った音を表わす有声破裂音bとの組み合わせmbと澄んだ音を示す無声破裂音pとの対比で言い分けたのです。先の場合と同じように、室内が静かなだけに雨の音はよけいに、響きの広がりを持っています。

又、同章には、ヒュッ (hiss) を巧く使った光景がすぐあとにあります。弟ロニーを起こしてしまったチャーリーがベッドに戻って座る場面です。

チャーリーは汚れた下着でベッドに腰を掛けた。もう1人の弟のジョーニーは、顔を壁の方に向け、中身の出かけた古い掛けぶとんから刈り込んだ黒い頭だけを見せて眠っていた。雨が家に当たってヒュッと音を立てた。(hissed)。(5)

Hiss(ヒュッ)は短い言葉ですが、両摩擦音h, sで雨の叩きつけられる激しいイメージを、短母音iでその速さ、鋭さを象徴しています。ラ・グーマは静かな小屋の雰囲気と対照的なそのイメージを短い動詞1語で簡潔に言い当てたわけです。

数えあげればきりがないのですが、ラ・グーマは直接的、感覚的な感じを与える擬声語を駆使することによって、雨に苛まれる人々の実状を鮮明に、聴覚から訴えかけていると言えます。

雨は小屋に騒音をもたらすだけではありません。雨の湿気が小屋内の悪臭を助長します。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化してしまいます。そんな臭いに関する1節もあります。

室内にも又、臭いがこもっていた。汗、毛布、むっとする寝具の臭いがしみこんで、どこからともなくすえた食べものとこもった湿気、それに濡れた金属の悪臭が漂っていた。(3)

それは貧乏の臭いであり、スラム街の別の象徴的存在でもあります。哀しいことに、小屋の住人たちはその臭いが気にならないほど慣れてしまっているのです。

第1章でラ・グーマが視覚に訴えているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に直接訴えかけていることになります。

6 ラ・グーマの思い

ラ・グーマ(1981年川崎市にて)

アパルトヘイト政権下で人権を否定され続けていたラ・グーマには、文学や人生以前に、その文学や人生を獲得するためのたたかいが存在していました。人間的な生き方をしようとすれば、南アフリカではどんな生き方を選択しても,当然人はそのたたかいの渦中に身を置くことになります。従って、『まして束ねし縄なれば』は人問としてのたたかいと生き方の中から生まれたものと言えます。しかし、この物語の文学としての評価が高いのは、たたかいのためのプロパガンダやスローガンではないからです。次のインタビューの一節から、ラ・グーマの文学と闘争についての基本的な姿勢が窺えます。

聞き手:小説のなかであなたが求める価値とは何ですか。

ラ・グーマ:私は出来るだけもったいぶらないで、人の尊厳や基本的な人間の魂を表現したいと思っています。政治宣伝やスローガンは避けるべきです。私は政治的にも闘いに関わっていて、作品を描く場合も闘争に関わる場合も、人間の尊厳を守りますが、著作と闘争は二つの違った活動です。11

ブライアン・バンテイングはイギリス版のAnd a Threefold Cordの序文でこの作品を次のように評しています。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。12

And a Threeford Cord, 1988(イギリスKliptown Books版)

『まして束ねし縄なれば』は、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ラ・グーマが後の世に伝える歴史的な遺産で、文学的な技法に裏打ちされた、貴くすぐれた作品だと思います。

「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年4月~平成2年3月)、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年4月~平成18年3月)、「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年4月~平成23年3月)で科研費の交付を受けました。

今回交付されたのは、基盤研究(C)、4,030,000円(平成30年度~ 令和3年度)です。

カナダに亡命中のCecil A. Abrahamsさん(Alex La Gumaの著者)を自宅に訪ねて「『カラード』と呼んでもいいんですか。」と聞いたとき、「今は『カラード』と呼ばれたがらないね。ホワイトかブラックだけ。政府がBLACK, COLOURED, ASIANと人々を呼んで、分断支配をやろうとしたからねえ。」という答えが返って来ました。(1987年8月22-25日、セントキャサリンズ)

Cecil A. Abrahamsさん(1987年カナダセントキャサリンズの自宅にて)

宮崎に来た1988年に県立図書館の殆ど何もない「国際コーナー」に南アフリカ観光局の寄贈の本や地図だけが並べられているのを見て哀しくなった記憶があります。多くの人が「人道的に」反対するなか100万もの大金を払ってそんなところに誰が行くんだろうと思っていましたら、同僚の教授が二人出かけて行きました。

伊高浩昭『南アフリカの内側―崩れゆくアパルトヘイト―』(サイマル出版会、1985年)94ページ。

Cecil A. Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma (Boston Twyne Publishers, 1985), p. 70.

Alex La Guma, And a Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964), p. 17. 以降の引用はこの作品のページ数のみを括弧の中に記します。

エピグラフに使ったのは伝道之書第4章の9節から12節:「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」で、

「三根の縄」(a Threefold Cord)が題に使われています。『まして束ねし縄なれば』(横浜:門土社、1992年)として日本語訳を出版してもらっています。

玉田吉行訳『まして束ねし縄なれば』(横浜:門土社、1992年)

Dennis Duerden and Cosmo Pieterse (ed.), African Writers Talking (London: Heinemann, 1972), p. 93.

10Brian Bunting, “Preface” to And a Threefold Cord (London: Kliptown Books, 1988), p. viii.

11Richard Samin, “Interviews de Alex La Guma," in Afram Newsletter No. 29 (January 1987), p. 13.

12Brian Bunting, “Preface to And a Threefold Cord”, p. viii.

(宮崎大学教員)

 

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信10(2019/9/20)

 

私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

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1 私の絵画館:「旅する子猫―2―サントリーニ島」(小島けい)

ずっと以前は、小さなザック一つと竹かごのバスケットだけで、アラスカの氷河やゴビの砂漠、そしてパリにも行きましたが。

いつからか家を空けることが至難の技となりました。それはごく自然の流れで、子供たちだったり、犬だったり。そして今は猫たちという大切な存在を、第一に考えてのことでした。

そこで、私が旅に出るかわりに、行ってみたいなあ・・・・と思う街を、子猫たちに旅してもらうことにしました。

それは、モロッコの青い街<シャウエン>から始まり、今年で6作目となりましたが。 この絵は、旅する子猫シリーズの第2作目。青い海と白壁の家並が美しい、ギリシャの<サントリーニ島>です。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」(玉田吉行)

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)

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3 小島けいのジンバブエ日記:「2回目7月22日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

街中のジャカランダ

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。
ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。
あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。
そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。今回は2回目です。

前回の「続モンド通信9」(2019年8月20日)→「小島けいのジンバブエ日記:1回目:7月21日」

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2回目:7月22日(晴れ)グレース来宅

グレースさん

長旅の疲れで全員がまだ寝ている朝七時、突然、この家のメイドをしているグレースがやって来ました。家では子供が三人もいて大変だから、家主のいない間も雇ってほしい、となまりの強い英語で訴えます。即答はできないので、とりあえず十ドルを渡して帰ってもらいました。この家には洗濯機がなく、掃除機は一円玉も吸えないうちに壊れました。(それでも私たちの帰国後、掃除機を壊したということで、相当額の修理代を請求されましたが・・・・。)ガスは無く、料理は電器コンロです。貴重な限られた時間を有効に使うため、結局働いてもらうことにしました。

右側の部屋を寝室に

翌朝グレースの要求した値段は、吉國さんから聞いた相場の二倍でしたが、午前中二時間、掃除と洗濯だけを頼みました。話が終わったと思ったら、往復四ドルのバス代を請求されました。後でゲイリーに確かめるとバスは片道一ドル、さらに吉國さんに報告すると、あの人は歩いて通っていたはずだ、とのことでした。なかなかのしたたかさです。

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4 アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1(玉田吉行)

(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。)

前回から、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」

前回は2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書きたいと思います。

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

 

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち続編:(1)戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

 

続モンド通信・モンド通信

私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)

3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

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1 私の絵画館:「りんちゃんとすずちゃんとメキシコ」(小島けい)

トイ・プードルのりんちゃん・すずちゃんの飼い主さんは、長い間メキシコで暮らしておられました。

そこで、絵の背景には<メキシコの太陽>と<ウチワサボテン><柱サボテン>を入れて、とのご希望でした。

知っているようで、実はあまりよく知らないメキシコでしたので、それから<メキシコの太陽>やサボテンがはえている大地の色などを、いろいろ調べました。

そして何回かラフ・スケッチのやりとりをした後、完成したのがこの絵です。

飼い主さんはこの絵をとても気に入って下さり、ご自分の行きつけのお店何軒かにも、この絵を使った個展の案内ハガキを、置いていただけるよう手配して下さいました。

今年ももうすぐ、大好きなりんちゃん・すずちゃんと飼い主さんにお会いできます。九月がとても楽しみです!

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜7:「修士、博士課程」(玉田吉行)

前回(→「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」)紹介しましたように「リチャード・ライトの世界」で修士論文を書きましたが、修士課程に行ったのは、小説を書くには大学が一番よさそう、それには最低限修士は要るやろな、と思ったからです。
5年間の高校の教員生活に疲れ果て(とても面白かったのですが、教科にホームルームに課外活動とやたらすることも多く、書いたり読んだりするにはほど遠い毎日でしたので)、しばらくはゆっくり眠ってから、の一心で高校に在籍したまま、教員の再養成課程にもぐりこみました。兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科・領域教育専攻言語系コース修士課程というえらい長い名前の課程です。5年の教員歴が受験資格、二期生、地元枠で優遇、管理職になりたい人のための課程、そんなことも後で知りました。
入学試験を受けるのに卒業大学の教官の推薦書が必要とのことで、愛校心などまるでない僕は、結局講義でマルクスの労働と人間疎外の問題を何やら熱く語っていたかすかな記憶を手繰り寄せ、その教官の住む奈良の自宅までおずおずと出かけました。「管理職を養成して職員を分断支配することを目論む教員再養成の大学院の新設に私は強く反対している、お前は何を考えているのか」、とその人に怒鳴りつけられ、結局、推薦書は書いてもらえませんでした。試験当日、試験会場の甲南女子大学の校門前でその人はマイクを持って大声で演説をしていました。やめて帰えろ、と引き返していましたら、車が止まって受験生らしき人から甲南女子大学はどこですか?と聞かれました。ここぞとばかり乗り込んで一気に校門を突破しようと目論んだのですが、車は校門の真正面で止められ、人だかりの中に放り込まれるはめに。お前、その髭で教育出来るんか?放っといてくれ。
結局、もみくちゃにされ、こづかれ、押されて、気がついたら、校門の中、ま、いいや、このまま試験を受けよ、それが後から振り返れば、大きな分岐点となりました。
マイクを持って日教組の旗振りをしていた人は、大学紛争で学生側につき反体制の姿勢を示していたようですが、のちに学長になりました。それも、二期も。人に熱心に票を頼んでましよ、と同僚だった後輩が言っていました。言うこととすること違うなあ、と思いますが、給料と手当てまでもらいながら、入学式も欠席、学校もろくに行かないまま、修了、そんな僕が偉そうなことを言えるとも思えませんが。
そして、「リチャード・ライトの世界」という修士論文が残りました。
その修士論文で、京都、大阪市立、神戸大学の博士課程を受けましたが、すべて不合格、(「黒人研究」に2本だけ)のに大学の職が見つかるわけないわなあ、どうしよう、と文字通り途方に暮れました。
教員の再養成課程でしたから、本来は高校に戻るべきですが、校長に会って事情を話すと、大学でがんばって下さいとすんなりと承認してくれ、無事無職になりました。

7年間在職した兵庫県立東播磨高校

それでも、お世話になっていた小林さん(当時大阪工業大学一般教育英語科の教授)が夜間課程の英語の非常勤3コマを用意して下さっていました。教育歴なし、研究業績殆どなしで、よう取ってくれはったなあと今は思いますが、1985年、1コマ16000円、月に4万8000円の浪人生活の始まりでした。

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3 小島けいのジンバブエ日記:「1回目7月21日」(小島けい)

今年の6月、住宅地に咲くジャカランダの花を見て、<この花を見ると、いつもアフリカの旅を思い出すよ>と相方に話したところ<机を整理していたら、こんなのが出てきたけれど・・・>と、一冊のぶ厚いノートを渡してくれました。

それは、私たち家族がアフリカ・ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の記録でした。私は旅の初めから毎日、その日の出来事を書きとめていましたので、きっとノートは何冊にもなっていたはずですが、今残っているのはこの一冊だけでした。

ノートを開くと、今まですっかり忘れてしまっていた大変な日々がそのままよみがえり、読んでいくうちに心が苦しくなるほどでした。

あの夏から27年すぎましたが、アフリカの状況はさほど変わっていないような気がします。

そこで、忘れきってしまう前に、実際にあったアフリカでの毎日を、一部だけでも書き残したいと思いました。

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1回目:7月21日

1992年の夏、私たち家族は「アフリカで暮らす」ということだけを目標に、ジンバブエの首都ハラレで、3ヶ月をすごしました。

ジンバブエの地図

行く前もそうでしたが、帰った後も、アフリカは遠い。日常の雑事に追われていると、時の流れも加わり、あの鮮烈だった日々がどんどん遠ざかり薄れていきます。

「旅は終わった。けれど、私のアフリカは今から始まる」と旅の終わりに思いました。その想いを消さないためにも、ハラレでの<普通>の毎日を、少し書き綴ってみようと思います。

(1) 7月21日(快晴)ハラレ着

アフリカ文学、特に南アフリカの「アレックス・ラ・グーマ」の作品を読んでいた相方は、留学先に南アフリカを望んでいましたが、当時まだ日本とは教育や文化の交流が禁止されていました。

アレックス・ラ・グーマ(けい画)

ケープタウン遠景:テーブルマウンティンを望む

そこで南アフリカに一番近く治安も良いと聞くジンバブエの、ジンバブエ大学に短期留学を決めました。さらに14歳の娘と10歳の息子を、短かい期間でも現地の学校に通わせたい。そのような希望を実現するために、在ハラレの吉國さんご夫妻に多大なご迷惑をかけ、白人街に一軒の家を借りました。

私たちの滞在中スイスに里帰りする老婆の家は、月額10万円。大学の敷地に近く、広い道路をはさんで「アレクサンドラパーク小学校」があるという、願ってもない場所です。約500坪の家は、広い芝生の庭とL型の建物から成っています。玄関を中心に、広いリビング、食堂と明かるい台所。そして寝室が3つです。

500坪の借家

まず驚いたのは鍵の多さです。玄関の1枚のドアに3箇所、そこからどの部屋に行くにもまた鍵です。さらに、鏡台やたんすの引き出し、冷蔵庫に至るまで、家中が鍵だらけでした。

また家具付きとは聞いていましたが、庭番のゲイリーと番犬のデインもいました。すこぶる大きなデインが黒人に吠える姿には迫力がありますが、私たちには最初から吠えませんでした。きっと小さな時から、黒人にだけ吠える訓練をされているのでしょう。

日本の家に比べるとずいぶん大きなこの家ですが、プールや夜間照明付きのテニスコートのある両隣りは、敷地も数倍あり、庭番も3、4人います。

ゲイリーとデイン

 何はともあれ、まずまず快適なこの家で、私たちのアフリカでの生活が始まりました。

続モンド通信・モンド通信

私の絵画館:ナミブ砂漠(小島けい)

2 ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「ナミブ砂漠」(小島けい)

<気配>

私は40年以上前に、モンゴルのゴビ砂漠に行きましたが。そこは<月の沙漠>の歌にあるような砂漠とは、全くちがいました。
砂丘というよりは草原でしたが、背たけの低い草の緑はあまり目立たず、むき出しの土地がどこまでも広がっていました。
観光客が泊まるパオだけは用意されていましたが、それ以外は見わたす限り何もありません。その<360度何もない>ということに圧倒された記憶だけは、遠い昔ですが、今も何故か覚えています。
一方、ナミビアのナミブ砂漠は、ゴビ砂漠とは全く対照的です。世界最古の砂丘といわれるこの場所は、オレンジ色と影の対比が美しく、一度描いてみたいと以前から思っていました。
この砂漠らしい<砂漠>には、ふつうラクダが描かれるのでしょうが。ずっと前に見た二頭の一瞬の姿が忘れられず、暑い砂漠に登場してもらいました。

<巣立ちの後に>

この頃の私は、<子供たち>が巣立ってしまった寂しさを感じています。今どこで暮らしているのだろう?と空っぽになった場所を見ては、思ってしまします。
2,3ヶ月前だったでしょうか。アトリエのベランダで、しきりに鳥のなき声がするようになりました。窓の外を見ても姿は全く見えませんが、声だけは確かにするのです。
ところがそのうち、家の猫たちが朝ご飯の後、そそくさと2階に上がっていくことに気が付きました。そしてある程度の時間をすごすと<やれやれ、今日のご用事が終わりましたよ>という満足気な顔で階段を下りてくるのです。
2階で何をしているのだろうと見てみると、アトリエの窓の外を、網戸越しに食いいるように見ています。猫たちの後で私も一緒に外を見ていると、しばらくしてベランダのすぐ横に付けてあるBSの丸いアンテナに、一羽の鳥がバサッバサッと音をたてて飛んできました。口には細長い枯れ草をくわえています。そして、その位置から再び羽を広げてま上に飛び上がりました。
鳥は雀の3~4倍の大きさで、ほっそりとした姿です。初めて見る鳥でした。
草は巣作りに使うのでしょう。鳥は毎日何回も草をくわえて運んできました。その度に必ずアンテナに止まるので、猫たちは間近に見る実物の鳥に色めきだち、今にも網戸を破りそうな勢いです。
アンテナから次に一体どこに飛ぶのかしらんと、鳥が遠くへ出かけた後ベランダに出てみました。するとベランダの屋根の端の方に直径10cmほどの丸い穴が空いています。2・3年前新しいクーラーに替えた時、その穴の横にあらたに管を通したようで。不要となった以前の穴は、簡単には防いだはずですが。それがはがれ落ちてしまったのでしょう。
鳥はその穴から天井部分に入り、巣作りをしているらしく、枯れ草のはしが板のすき間から何ヶ所もはみ出して垂れていました。
それから毎日、猫たちと私は折をみては窓の外を観察しました。鳥はあいかわらず、外から帰ると必ず一度アンテナに止まり、まわりを確かめてから数10cm上の巣穴へ入りました。
そのうち天井あたりから幼いなき声がひんぱんに聞こえるようになり、親鳥の動きも俄然活発になりました。バッタのような虫をくわえて帰ってきては、すぐまた再び飛びたちます。
ある時、巣の中の声が異常にけたたましくなり、大騒ぎしているので見てみると、穴から追い出された1羽のスズメが、あわてて逃げ出していきました。不法侵入者を家族総出で追いはらったのでした。
そうこうしているある日、親鳥とそっくりな形の小さな鳥が、巣からおりてきてアンテナに止まり、次に向かいの家の屋根に飛んでいきました。
卵からヒナにかえった子供たちが、とうとう外へ飛べるようになったのです。私は嬉しくて、下絵用のノートにメモ書きを残しました。6月25日でした。
その直後、九州南部では恐ろしいほどの大雨となり、やむなくアトリエの窓にもシャッターをおろしました。
数日後大雨が一段落して、そおっとシャッターを開けましたが、その時、鳥たちはもういませんでした。雨が止むのと同時に、巣立ったようでした。

子供が巣立つと寂しいとは、時々耳にしますが。
小鳥たちの巣立ちに少し寂しさを感じつつ、猫たちと私の特別な<今年の春>が終わりました。
もうすぐ、夏です。

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2 ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3     (玉田吉行)

概要

ほんやく雑記の8回目で、リチャード・ライトの「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)の中で効果的に使われている擬声語を取り上げようとした経緯について書きました。

ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)を読んだときに、本を読みながら感じた思いと、自分のレベルも知りたくてファーブルさんに手紙を書きましたが、そのときに日本語訳して手紙に入れました。

『リチャード・ライトの未完の探求』

本文

ほんやく雑記の8回目です。

前回はリチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960)の中編小説「地下に潜む男」("The Man Who Lived Underground")が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について書きましたが、今回からその作品の中の擬声語表現について書こうと思います。今回は先ず、なぜ擬声語表現なのか、です。(写真:ミシシッピの会議でのファーブルさん)

僕はずっと書こうと思って生きて来た人間ですから、文学の研究そのものも作品論や作家論にも極めて懐疑的です。人の好みや受け取り方も人それぞれですし、そもそも字や語に対する感覚などは努力して何とかなるものでもありません。努力は誰でもやりますが、絵が描ける、ダンスが踊れるなどと同じで、語感や文章に対する感性などは努力でなんとかなるものでもありません。

必要性もあって、好きだった人に聞いたリストを元にアメリカの小説を読み始めました。最初に読んだのはセオドア・ドライサー(Theodore Herman Albert Dreiser)の『アメリカの悲劇』(An American Tragedy, 1925)、タイトルだけ聞いて図書館から借りてきたハードカバーはなんと1026ページもの大作で、辞書を引きながら読むのに2か月ほどかかりました。(このとき、辞書などひいとったら本なんか読まれへんと身に染みました。)それから、ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne)の『緋文字』(The Scarlet Letter, 1850)、ウィリアム・フォークナー(William Cuthbert Faulkner)の『八月の光』(Light in August, 1932)を読みました。どれもアメリカ文学では有名で、フォークナーなどは1949年度にノーベル文学賞を受賞しています。1985年にライトの死後25周年を記念して国際会議がミシシッピ州のオクスフォードにあるミシシッピ州立大学でありましたが、集まったのは1500人ほど、前年にあったフォークナーの会議に集まったのが一万人だったそうですから、オクスフォードで過ごしたフォークナーは、アメリカ人好みの作家なのでしょう。

読まなくては、という思いで読んだせいもあったかも知れませんが、どの本もまったくおもしろくありませんでした。その反動もあったのでしょうか。『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1938)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)など、ライトの本は鮮烈でした。ことに『アメリカの息子』はからだがばりばりでいうことをきかなかったのに、興奮して震えながら二日ほどで一気に読んだ記憶が鮮明に残っています。

『アメリカの息子』

僕の好きなファーブルさん(ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』の著者で、本を読んで感激し、自分の書いたものを英訳して送った翌年にミシシッピの会議でお会いし、7年後にジンバブエの帰りに家族といっしょにパリの自宅にお邪魔しました。ソルボンヌ大学や街並みを案内して下さり、訪ねて来られた同僚の世界的に有名な経済学者といっしょに子供たちとトランプをして下さいました。)が「地下に潜む男」を高く評価しておられた影響もありますが、「地下に潜む男」もなかなかの作品でした。(ハックスリー、トルストイ、モーパッサン、サロヤンの小説と並んでQuintet-5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられています。)

もちろん、ファーブルさんがおっしゃったように、この中編小説が従来の人種問題を中心にしたテーマを一歩踏み越えようとしている作品として、或いはエリスン(Ralph Ellison, 1914-)を筆頭にする後続の作家に少なからず影響を及ぼした作品として評価されるようになったのは確かですし、そういった評価が、作品の中に示された人種問題の枠を越えたより深いテーマの重みや、差別される黒人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質にいち早く気付き得る有利な地点に立っているというライトの視点の鋭さに負うところが大きいのですが、それらがライトの紬ぎ出した言葉による表現によって裏打ちされていることも忘れてはいけないと思います。作品をぞくぞくしながら読んだのは、その時は意識してなかったと思いますが、言葉や表現にも魅せられていたのでしょう。

次回はそういった表現の中でも、作品の中の主要な場面で使われた擬声語表現について書きたいと思います。

日本語訳→“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”

次回は「ほんやく雑記(9)イリノイ州シカゴ4」です。(宮崎大学教員)

「モンド通信」は途切れましたが、「続モンド通信」に連載を再開するつもりです。

「『続モンド通信』について」(2018年12月29日)

執筆年

2016年

ダウンロード

2017年5月用ほんやく雑記8(pdf 343KB)