続モンド通信・モンド通信

続モンド通信23(2020/10/20)

 お知らせ:2021年カレンダー(小島けい)

私の絵画館:ロバとポニー、走る!(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~②ぼちぼち いこか(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②「アフリカシリーズ 」(玉田吉行)

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1 お知らせ:2021年カレンダー(小島けい)

寒くなって参りましたが、皆様・犬ちゃん、猫ちゃんたちもお元気でしょうか。

例年より、絵の完成が2ヶ月半も遅くなりましたが。10月14日13枚の絵が出来上がり、現在カレンダーの製作会社で進行中です。

2021年のカレンダーが届きましたら、皆様のお手元にお送りさせていただきますね。

2021年のカレンダー表紙

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2 私の絵画館:「ロバとポニー、走る!」(小島けい)

すっかり秋になりました。ススキの穂が風に揺れる頃になると、せいたか秋のキリン草の黄色が目立つようになります。

いつからかアレルギーの元?とか言われ、あまり評判はよくありませんが、私は今も好きです。

これまでも、時折絵に登場しています。

<秋立ちぬ>では馬(サンダンス)と。

<ノアと三太と合歓の花>では猫・犬と。

そしてこの絵では、ロバのパオンちゃんと、ポニーのファニーとぶりちゃんと一緒に描きました。

鳴き声が大きすぎるため、一頭だけ牧場から離れたトンネルの中で暮らしていたパオンちゃんでしたが、時々脱走しては、牧場にいる二頭と楽しそうに広馬場を走ることがありました。

あまりに嬉しくて、そんな時ロバは顔を空に向けて走るのですよ。

ある秋の日の一コマです。

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3 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~②:ぼちぼち いこか(小島けい)

私はほぼ毎日、午後から夕方にかけて絵を描きます。そのため、その後から寝るまでの数時間が、めまぐるしい忙しさとなります。人間の夕食やおかず作りの他に、一度にたくさん食べられない猫たちに、2時間おきくらいに3回ほどごはんをあげます。

寝る頃にはさすがに疲れていますが、少しクールダウンをしないと、うまく眠れません。そこで毎日<ロデオボーイ>に乗ります。馬の動きを模したマッサージ機のようなものですが、それで15分ほど揺ら揺らすると、不思議に血圧も下がります。

乗っている間両手はヒマですので、しばらく前から、すぐ横の絵本の棚から本を取り出して見始めました。

長い間見返すこともなかった絵本たちですが、改めて見てみると、今ではお話よりも絵の方が気になり、新たな発見があったりします。

たくさんの絵本のかで、絵も内容もすっかり忘れているのに、題名だけははっきり覚えていた本があります。それが<ぼちぼち いこか>です。

訳者のいまえよしともさんの翻訳が、あまりにもぴったりの関西弁でしたので、なんとなく日本人が書いた本だと思い込んでいましたが。<マイク・セイラーさく><ロバート・グロスマンえ>ということでした。

12年間、毎年個展に間に合うよう7月末の〆切りにむけ、追われるように絵を描き続けてきました。今年、絵の完成が大幅に遅れてくると<こんなに遅くなっていいのかしらん?>とあせりの気持ちが出てきました。

その度に、わざと目につく場所に置いたこの本を横目に見ながら<そうそう、ぼちぼち いこか、ですよ>と自分に言いきかせました。

何とか今年の絵は描き終えましたが。ほこりをかぶった本棚から再生したこの一冊、この言葉は、きっとこれからも私の大切な拠りどころになるのだろう・・・・と思います。

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4 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考:② 「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」

「アフリカ史再考」の2回目です。

「アフリカシリーズ」は1983年に放送された8回シリーズの番組(各45分)である。イギリスのタイムズ誌の元記者で後にたくさんの歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されている。20年ほど前に「アフリカシリーズ」でインターネット検索をした時は、番組内容の案内が載っていた気がするが、今は過去の番組紹介「NHKアーカイブ」にも入っていないようだ。

40年足らず前のもので、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介している。後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていている。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだ。

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」である。

アフリカシリーズは当時放映されたものをビデオに録画し、DVDにして保存してある。高校を辞めたあと非常勤で世話になっていた大阪工業大学のLL教室でダビングさせてもらったもので、米国テレビドラマ「ルーツ」(1978年)と併せて、英語などの授業で使って来たとても貴重な資料である。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語だ。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半である。

白人優位・黒人蔑視

500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を浸透させて来た。デヴィドスンは番組の冒頭で今は観光名所になっているジンバブエの遺跡グレートジンバブエを紹介しながら、発見当初のヨーロッパ人の反応について次のように語っている。

「アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

グレートジンバブエ(1992年たま撮影)

 しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病」と断言している。

「18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

奴隷貿易

そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べている。

「では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。」(「第1回 最初の光 ナイルの谷」)

奴隷を運んだ帆船(アメリカ映画「ルーツより」

経済的譲歩

そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいる。

「援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。」(「最終回 植民地支配の残したもの」)

アフリカの歴史について英文書を2冊書き、英語などの授業で使って来た。ウェブでも案内をしている。①Africa and Its Descendants 1『アフリカとその末裔たち1』(門土社、1995)(https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/africatoday1.doc)、②Africa and Its Descendants 2『アフリカとその末裔たち2:新植民地時代』(門土社、1998)(https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/africatoday2.doc)である。 ↓

次回③は、ヨーロッパ人の侵略が始まる前のアフリカについて、である。

(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信22(2020/9/20)

私の絵画館:「イチョウと子猫」(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~①:土日の午後は(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜19:「 アフリカ史再考:①アフリカ史再考のすすめ」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「イチョウと子猫」(小島けい)

 以前、大分県の<九州芸術の杜>で個展をしていた時、猫好きのスタッフの方とお友だちになりました。彼女はかわいい美人さんで、性格もとても優しい方でした。

<九州芸術の杜><ギャラリー夢>

<九州芸術の杜>で2年目の個展の時。<ギャラリー夢>の入口正面に、2枚の猫の絵を飾りました。<蔦とさや>と<梅とぴのこ>です。

ある日、福岡から来られたお客様が、その2枚の絵の前で迷っておられました。そして、どちらを買うか決めかねて、一端そこを離れた時。

彼女は一番気に入っていて自分が買いたい!と思っている<梅とぴのこ>に売約済みの赤い丸のシールをサッと貼りました。

<蔦とさや>

 もどってきたお客様は<そうか・・・、こちらが売約済みならもう一枚の絵にします>と<蔦とさや>の絵を購入されました。

後で彼女から<咄嗟にシールを貼ってしまいました>と聞き、みんなで大笑いしました。それほど気に入ってもらえるなんて!描いた者として、これほど嬉しいことはありませんでした。

<梅とぴのこ>

彼女とは、飼い猫の梅ちゃんで<梅ちゃんと桔梗>という絵を描かせていただいたり、その後も犬(三太の眠り)や花(白木蓮)の絵を購入していただいたりと、ずっと交流が続いています。

<梅ちゃんと桔梗>

(三太の眠り)

(白木蓮)

一昨年、以前の<イチョウと子猫>の絵はまだありますか?と問いあわせがありました。<あの絵は東京の個展でお世話になっている、オーナーさんのご自宅に行きましたよ>とお答えしましたが。

私もとても気に入っている構図でしたので、今一度描いてみようと思い、<イチョウと子猫>の2枚目ができました。

実は、この絵に登場する子猫二匹のうちの左側の子が<幼くして突然逝ってしまったちーちゃんにとても似ている>のだとか。絵をお送りすると。<ちーちゃんがまた帰ってきて、やさしく見守ってくれているような気がします>と、ご夫妻から熱いお手紙が届き、ほっとしました。

<イチョウと子猫>

2010年カレンダー表紙

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~①「土日の午後は」(小島けい)

小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~①「土日の午後は」

小島けい

私の絵画館:「続モンド通信22」(2020年9月20日)

元競走馬ツルマル・ツヨシ

小島けいカレンダー2015年8月

今週も土日の午後、私のテレビは競馬中継です。

いつからでしょうか。<馬の姿を見ていたら、もしかして馬の絵が上手になるのでは?!>というアホな思いから、競馬中継を見るようになりました。

その効果のほどはわかりませんが、今ではただ走る姿を見るだけで、心が洗われるような気がします。

たまにですが、騎手の方の落馬があります。あれほど馬のことを知りつくしているはずの人たちでさえ、一瞬で起こりうる。生き物である馬との折り合いの難しさを痛感します。

ツルマル・ツヨシ2016

小島けいカレンダー2017年11月

これまで見てきたなかで、一番感動したレースがあります。何時だったのかも、馬の名前も忘れてしまいましたが。とても大きなレースで、本命はこの馬!と誰もが予想していた馬がいました。

ところが結果は、全く違う馬が優勝しました。そしてこのレースが、その馬の最後のレースでした。<有終の美を飾る>という言葉通りの見事な勝ちっぷりで、多くの人々に感動とどよめきを残して、引きあげていきました。

引退後、この馬がどうしているのか私にはわかりませんが、どこかの牧場でのんびりすごしていてほしい・・・と願わずにはいられません。

無観客競馬となって何ヶ月もたちます。そんな大歓声のない中でも、馬たちは変わらず、今日もひたすら走り続けています。

シンディと梅

小島けいカレンダー2012年2月

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜19:

「アフリカ史再考①ーアフリカ史再考のすすめ」

バズル・デヴィドゥスン

「アフリカ史再考」の連載一回目である。

二つの科学研究費(註1)でアフリカのエイズを取り上げ、二つの連載(註2)と、他にもエイズ関連のもの(註3)を書いた。その過程で、ひとつの病気を理解しようとする時には、社会や歴史などのより大きな枠組みの中で病気を包括的に捉える必要があると改めて感じた。
アメリカやヨーロッパ諸国では1995年の後半あたりから、抗HIV製剤が劇的な成果を見せ始め、HIVを抱えたまま生活を維持することが可能になったが、アフリカ諸国では抗HIV製剤だけでは問題の解決は難しい。貧しく惨めな環境で暮さざるを得ない人たちがあまりにも多く、高価な薬にはなかなか手が届かず、手が届いたとしても基本的な生活基盤が変わらない限り、必ずしも効果が望めるとは限らないからである。コロナウィルス(Covid19)で混乱に拍車がかかっている今となっては、尚更である。
基本構造を変えないまま、つまりアフリカ人労働者の賃金を上げられないまま、アパルトヘイト体制から新体制に移行して貧困と闘っていた南アフリカの元大統領ムベキは「私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。」と世界エイズ会議でもそれまでの主張を繰り返したが、世界のメディアの大半を所有する欧米のメディアはムベキを散々に叩き続けた。しかし、よく耳を傾ければ、ムベキ氏の言ったことは極く当たり前のことである。南アフリカのアフリカ人の安価な労働力にただ乗りして自分たちの生活を享受する欧米人や日本人こそ、無自覚な傲慢さを恥じるべきだろう。
アフリカの貧困も、ここ数百年来の欧米の侵略が大きな原因で、今も「先進国」と「第3世界」の間の経済格差がなくならないのは搾取構造が形を変えて続いているからだ。
「アフリカについて見直す時期に来ています」と呼びかけたバズル・デヴィドゥスンの「アフリカシリーズ」がNHKで放映されたのは1983年だが、アフリカについての報道も極端に少ないままだ。英語や教養科目「アフリカ文化論」「南アフリカ概論」などの授業でアフリカの問題を取り上げて来たが、学生のアフリカについての認識の程度や意識は、あまり変わっていないように感じることが多かった。
自分たちの足下を見直すためにもアフリカ史の再考は必要だと考え、「アフリカシリーズ」を元に「アフリカ史再考」を連載することにした。

デヴィドゥスンは元タイムズ紙のイギリス人記者で、後に歴史家としてたくさんの著書を残している。日本でも『アフリカの過去』(理論社)が翻訳されている。翻訳したのは神戸市外国語大学の教授だった貫名義隆さんで、貫名さんは大学紛争では学生側に立って支援を続けたが、研究室に火炎瓶を投げ込まれ完成原稿を焼かれてしまったと聞く。もう一度同じ歳月をかけて翻訳出版したその書は、貴重な生きた歴史記録である。夜間課程はゼミが一年間しかないので、一年間だけの貫名ゼミ生だったが、授業にも出ず、勉強もしない学生だった。のちに大学の職に就いて、授業で『アフリカの過去』を学生用の課題図書として紹介することになるとは夢にも思わなかった。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。

神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

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註1
(平成15年~平成18年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(課題番号 15520230)と(平成21年~平成23年)科学研究費補助金「基盤研究(C)(2)」「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(課題番号15520230)
註2
二つの連載は、ケニアの作家ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳[No. 5(2008年12月10日)からNo.34(2011年6月10日)までの30回]と、「『ナイスピープル』を理解するために」[No. 9(2009年4月10日)からNo.47(2012年7月10日)までの27回]である。それぞれブログに一覧表もつけている。→「玉田吉行の『ナイスピープル』」、→「玉田吉行の『ナイスピープル』を理解するために」
包括的に病気を捉える必要性については:→「アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 15(2009年10月)、ムベキについては:→「エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信」(横浜:門土社) No. 19(2010年2月)を書いた。

ワムグンダ・ゲテリアが書いた『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』

註3 エイズ関連で他に書いたもの:
「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁、2000年。
「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2004年。
「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁、2005年。
「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年。
“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"「ESPの研究と実践」第10号12-20頁、2009年。
「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ、2010年。
「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ、2011年

(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信21(2020/8/20)

 

私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記14回目:後書き(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「 アフリカ系アメリカの歴史」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

モデルは、大分県在住の<寅次郎くん>です。

寅次郎くん

個展を始めて今年で13年目になりますが、最初の五年間は、大分県の飯田高原にある<九州芸術の杜>でお世話になりました。

九州芸術の杜正面

そこで個展をしていた時。一人の落ち着いた雰囲気の女性が、作品を見終わった後話しかけてこられました。豊後大野市で<夢色工房>というお店をしている方でした。<私のお店で、絵とカードを販売しませんか?>というお誘いを受けました。

しばらく後、ありがたく作品を置かせていただいたのですが。そのお店に来る若い女の人で、えらく私の作品を気に入って下さった方がおられるとか。そして、彼女はもっと私の作品を広めようと、自主的にあちこち動物病院にあたったりして下さっているというのです。そのお話を聞いてからずっと、何という<ありがたい方>!と感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後何年も年月が流れ、彼女は縁あって大分県から四国の方に嫁いでいかれました。

寂しくなった彼女の実家には、新しい犬ちゃんがやってきました。それがこの愛らしいダックスフンドの寅次郎くんです。ちなみに、命名はお父様だそうですよ。

2020年10月カレンダー

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2 小島けいのジンバブエ日記14回目:「後書き」(小島けい)

 何故か、旅の六年後に書いた文章が残っています。その時からっもずいぶん月日は流れましたが、感じる思いは今も変わりませんので<小島けいのジンバブエ日記>の後書きに代えたいと思います。

旅kら六年を経た今、改めてふり返ると、「私のアフリカ」はほとんどゲイリー一家との交流に限られています。そして出逢ったことを忘れてしまわないで、引き受け続けることの難しさを、感じるこの頃でもあります。

白人と黒人が対立している国を訪れ、初めて、そのどちらにも属さない立場を意識しました。それはとても中途半端ですが、その曖昧さ故に、どちらにも関わり得るということが強みでもあります。

これからもし何か出来るとすれば、それはいずれかに擦り寄ることではなく、「黄色」の立場からではないか、と感じたのですが、その実行は、生半可にはいかないようです。

 

 アフリカ不思議なところです。何もなくてあたりまえですが、何が起こってもおかしくありません。体力的にそれほど強くない私たち家族が、病気もせず帰ることができた。本当は、それだけで、十分だったのかもしれません。

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「アフリカ系アメリカの歴史」

アフリカの歴史の次は、アフリカ系アメリカの歴史の拠り所についてです。リチャード・ライトの小説を興奮して読みながら、小説を理解するためにはアフリカ系アフリカ人が辿った歴史を辿るなかでその必要性を感じました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)

リチャード・ライト(小島けい画)

もちろん、アフリカ系アメリカの小説を理解するために始めたわけですから、本格的な歴史書、ハーバード大学でアフリカ系アメリカ人として初めて博士号を取ったCarter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)ゼミの担当者貫名さんが十年かけて翻訳されたWilliam Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)(『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』、大月書店、1970年)シカゴ大学の歴史学者John Hope FranklinのFrom Slavery to FreedomA History of Negro Americans (1980)などを先ず読むべきだったのでしょうが、私が拠り所にしたのは、①ラングストン・ヒューズの“The Glory of Negro History”、 ②ライトの12 Million Black Voices、③マルコム・リトゥルのMalcolm X on Afro-American History④アレックス・ヘイリーのRootsと⑤それを基に作られたテレビ映画「ルーツ」、それと⑥本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』でした。

  • “The Glory of Negro History”

“The Glory of Negro History” (1964年)はラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)が物語った詩人の歴史です。アメリカにアフリカ人が連れて来られるようになった頃から公民権運動が始まる頃くらいまでの詩人から見た民衆の物語です。詩人らしく、自らが朗読してレコード(LP)も出しています。当時生存中の著名人にも演奏や朗読を依頼して花を添えている貴重な歴史資料でもあります。

文化として黒人が受け継いできたスピリチュアルズ、ブルース、ジャズなどを盛り込み、そのレコードをウッドスン博士に献じました。

ヒューズとも親交のあった古川博巳さんが註をつけて、南雲堂から出されていた大学用のテキストを5年ほど、映像などといっしょに教養の英語の時間に使い、ヒューズの朗読も教室でくり返して聴きました。民衆に寄り添った詩人の肉声は、後の世の人への素敵な贈り物だと実感しながら聴いていました。マルコム・リトゥルなどが痛烈に批判したNegroが表題に使われてはいますが、死ぬまでハーレムを去らなかった詩人らしく、民衆の中に根ざしたアフリカから連れて来られた人たちの子孫の「栄光」の歴史です。

  • 12 Million Black Voices

詩人の“The Glory of Negro History”と併せて、小説家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)の12 Million Black Voices(『1200万の黒人の声』、1941)も拠り所となりました。『アメリカの息子』(Native Son, 1940)と自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の谷間にあって知名度は高くないのですが、なかなかの力作です。

少数の支配者層に搾取され、虐げられ続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」です。

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(「黒人研究」第56号50-54頁、1986年)

  • Malcolm X on Afro-American History

Malcolm X on Afro-American History は、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館に行った帰りに立ち寄ったアフリカ系アメリカとアフリカの専門店リベレーションブックストアで見つけたもので、前回紹介したThe Struggle for Africaと共に貴重な拠り所になりました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」続モンド通信3、2019年2月20日)

公民権運動の指導者マルコムが4回シリーズで語ったアフリカ、アフリカ系アメリカの歴史で、4回目の途中に暗殺されましたので、未完のままです。白人支配の体制に闘いを挑む前に、先ず自己意識の変革の必要性を説き、アメリカ黒人の歴史についての話をしています。奴隷船でアフリカから連れて来られる以前に、アフリカにいかに豊かな文化があったか、いかに自分たちの祖先が優れた人々であったか、又、いかに巧妙な手段を使って白人たちが黒人に白人優位の考え方を植えつけてきたか、そして今、自分たちが何をしなければならないのかなどを語りました。「黒人歴史週間」やアメリカ黒人の呼び方「ニグロ」の欺瞞性も次のように厳しく批判してします。

なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。[『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』 Malcolm X on Afro-American History (New York: Pathfinder, 1967), p. 15]

小島けい画

後に、自己意識の大切を説いた南アフリカのスティーブン・ビコなど、多くの人にも影響を与えた貴重な人物の一人だと思います。

 

Rootsと⑤テレビ映画「ルーツ」

『ルーツ』(Roots, 1976)はアレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921~1992)が自分の祖先を七世代遡って小説にまとめたもので、翌年にはテレビ化され、各国で翻訳もされて世界的に反響を呼びました。

30周年記念DVD版の表紙

17歳だった1767年に奴隷狩りに遭い、アメリカ大陸に連れて来られた祖先クンタ・キンテの名前を、村の歴史を継承する語り部グリオ(griot)の口から聞くために、西アフリカガンビアの小さなジュフレ村を訪れています。

私はテレビ放送があった頃は見ていませんが、1980年代半ば頃に非常勤講師としてお世話になった大阪工業大学のLL(Language Laboratory)教室でダビングしてもらいました。孫テープの画質はよくないですが、今となっては貴重な資料です。2007年に30周年記念版のDVDは映像も鮮明ですが、一部(クンタ・キンテの誕生から、奴隷解放がテネシー州に落ち着くまで)だけで、それ以降の2部は含まれていません。どちらも、今は映像ファイルに化けて、英語の授業で大活躍です。

Roots, 1976

安岡章太郎訳日本語版上

安岡章太郎訳日本語版下

 

『アメリカ黒人の歴史』

本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も拠り所の一つになりました。黒人研究の会の例会で一度だけ本田さんのお話を伺ったことがあります。大学で私のゼミの担当者だった貫名義隆さんが誘われたようで、当時は一橋大学の教授だったと思います。

黒人研究の会は貫名さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めた「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする」(会報「黒人研究」第1巻第1号1956年10月)小さな研究会です。例会での『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出版された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々だったと記憶しています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

1619年8月に植民地労働力としてアメリカ最初のアフリカ黒人が、1620年11月にイギリス軍艦をともなったオランダ船が、どちらもヴァージニアのジェームズタウンに来たことを指摘して書いた「アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である」という書き出しは印象的でした。

その後、奴隷制を基に発展していくアメリカを、南部戦争→再建期→反動→公民権運動を丁寧に辿り、わかり易く書かれています。1991年に改訂新版(新赤版)が出て、今も岩波新書「アメリカ黒人の歴史」は読み継がれているようです。

アメリカの歴史に関しては、英文書Africa and its Descendantsの3章を軸に、4回に分けて書きました。↓

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」(2014年3月10日)

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」(2014年4月10日)

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」(2014年5月10日)

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」(2014年6月10日)

(宮崎大学教員)

 

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信20(2020/7/20)

 

私の絵画館:「赤い屋根」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記13回目:パリ編(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜17:「 アフリカの歴史」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「赤い屋根」(小島けい)

赤い屋根が印象的なこの街は、クロアチアのドブロブニクです。

何故かイタリアの石だたみの街には、とても猫が似合うと思うのですが。この街にも猫がぴったり!と思い、たくさん登場してもらいました。

 

絵を描きおえた後で、この街がジブリ映画<魔女の宅急便>のモデルになったと知りました。

2020年9月カレンダー

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2 小島けいのジンバブエ日記13回目:「パリ編」(小島けい)

 

ハラレ最後の夜。空港の殺気立った大混雑のなかから、ようやくパリ行きの飛行機に乗り込むことができた時は<アフリカから何とか抜け出せた!>という思いに尽きました。

空港で飛行機に乗る。ただそれだけのはずでしたが。その場所が<アフリカ>だったということなのでしょう。

慣れない土地で少しずつたまってきていた疲れに、最後の一撃のような空港での大混乱で、私たちは疲れ果てドロのように眠りました。

 

私にとっては三度目のパリでしたが、初めて飛行機に酔い、同じく気分が悪くなった息子と私は重い足どりで、相方と娘は元気にシャルル・ド・ゴール空港に降り立ちました。

ロンドンでは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの奥さんのブランシさんにお会いしましたが。パリでは、ソルボンヌ大学でアメリカ文学を研究しておられるファーブルさんにお会いします。

宿は、ファーブルさんが素敵な屋根裏部屋を予約して下さいました。建物の最上階に最後はハシゴを使って登ると、広い空間が広がっていました。ベッドは手前と奥の二カ所にあり、空にむかって斜めになった窓を開けると、パリの屋根屋根が目の前に重なっています。

小島けい画(奥の扉は壁に描かれた絵です!)

 

いかにもパリらしい<ワンルーム>に大喜びしましたが。まもなく由緒ある古い建物の不便さに気付くことになりました。

最上階なので水圧が弱く、水もお湯もチョロチョロしかでません。バスタブのお湯も一杯になるまで長―――い時間がかかります。また10月初めのパリはすでに寒くなっていましたが、暖房も思うように使えませんでした。

とても魅力的な部屋で、普通の時ならきっとその不便さも許容できたと思いますが、当時の私たちにはその余裕がありませんでした。

2~3日後、パリらしさよりも快適さを選び、この上なく心地よくすごせる<モン・タ・ボー>というホテルに宿を移しました。

湯船にいっぱいお湯を入れ、シャボンの泡に包まれている子供たちの笑顔が、どれほどしあわせそうに見えたことか。

大学用テキストの装画に使ったこの時のパリのスケッチ

少し休んだ後、ファーブルさんのお宅に伺いました。やはり古い建物の中の一軒で、1回が玄関とロビー、2階が広いリビングとキッチン、3階が書斎と寝室でした。奥さんのジュヌビエーブさんも大学の先生で、忙しくしておられました。

私たちはご挨拶の後お茶をいただきましたが、ファーブルさんはテーブルに置いてあった小さなリンゴを薦めて下さいました。それは<別荘で一昨日摘んできたりんご>ということでした。

パリは古くからの街並みを大切にしているため。古い建物を壊して高層ビルを建てたりはしません。そこで、ある程度余裕のある人たちは、ふだんは街なかですごし、週末は広い庭のある田舎の別荘でのんびりすごすという生活をされているようでした。

お茶の後、ファーブルさんと私たちはレストランで食事をしました。まだ飛行機酔いが収まっていない息子に、彼は心配して<そんな時はコーラが一番いいんだよ>と勧めてくれました。私は内心<ほんとかなあ・・・?>と思いましたが、効果があったかどうかは、息子に聞き忘れました。

もう何十年も昔のことですので、どんなお話をしたのかは忘れてしまいましたが、食器の音や人々の話し声のする暖かくてにぎやかなレストランの雰囲気だけはぼんやりと記憶に残っています。

食事の後は、ソルボンヌ大学を案内して下さいました。あちこちの建物を回り、最後には授業中の大きな教室にもずんずん入って行かれました。私たちが少しためらっていると<気にしなくていいからおいで>と呼ばれます。いいのかなあ?と思いながらもついていったのですが。今から思えば、突然見知らぬ東洋人の家族が入ってきて、きっと学生さんたちは<何だ、これは?>とびっくりされたことでしょう。

 

すでに秋の気配のするパリは、肌寒い日々でした。寒さに弱い子供たちの体が心配で、残りの数日はあまり無理をせず、小さな美術感をいくつかめぐったり、少し買い物をしたりしてすごしました。

毎朝焼きたてのフランスパンを買いに行くお店で、店員のかわいいパリジェンヌが、おつりを渡す時、相方に笑顔でウィンクしてくれた!と子供たちが大喜びしたり・・・。

そんな何げないパリでの数日が、アフリカでの生活の疲れを、知らないうちに少し軽くしてくれたような気がしました。

本の装画に使ったスケッチ

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜17:「アフリカの歴史」(玉田吉行)

 リチャード・ライトの『ブラック・パワー』をきっかけに本格的にアフリカに首を突っ込むようになったものの、アフリカの歴史について何を拠り所にするかは大きな問題でした。

リチャード・ライト(小島けい画)

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、「黒人研究」第55号26-32頁、1985年。

“Richard Wright and Black Power”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48. 1986年。

大学職に就くためには業績も必要で研究らしきものも始めましたが、小説を書く空間さえ確保出来れば充分で、元より研究の目標も展望もあるはずもありませんでした。しかし、その都度やれることをやっていたら次が見え始め、また次が見え、気がついてみたら、アフリカの歴史の拠り所を探り始めていました。探り始めて手がかりらしきものが見え始めたのも、黒人研究の会、リベレーションブックストア、「アフリカシリーズ」の影響が大きかったと思います。

黒人研究の会

黒人研究の会は第二次世界大戦後のアジアやアフリカの独立運動や、アメリカの公民権運動の頃から活動を始めていた小さな研究会です。アフリカ系アメリカとアフリカが研究の対象で、神戸市外国語大学の教員が活動の中心でした。

神戸市外国語大学の夜間課程を卒業後、高校教員6年目に入学した大学院で修士論文を書き始めた頃に入会し、月例会にも参加し始めました。会員は文学や語学が専門の人が中心でしたが、歴史や政治の専門家もいましたので、アフリカ系アメリカやアフリカの広範囲な話が聞けました。発表の場が欲しくて参加しましたが、自然にアフリカの文学や政治や歴史にも触れるようになりました。アフリカ人の会員もいて、アフリカ人の立場からの意見も聞けましたし、自然にアフリカも視野に入れて考えるようになったのは大きかったと思います。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

月例会が行なわれた神戸市外国語大学旧校舎事務局、研究棟(大学ホームページより)

リベレーションブックストア

リベレーションブックストアはニューヨーク市ハーレムにあるアフリカ系アメリカとアフリカの専門店で、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館を訪れた帰りにたまたま立ち寄りました。そこでThe Struggle for Africa (Zed Press, 1983)を見つけました。図書館にはアフリカ系アメリカとアフリカの貴重な資料が揃ったションバーグコレクションがあり、その中に修士論文の軸に据えたライトの中編小説が掲載された雑誌のフォトコピーがあると知って出かけました。実際には、図書館に行く前に、ニューヨーク市の古本屋で雑誌の現物を見つけたので、コピーを手に入れる必要はなくなってしまいましたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)

前書きによれば、The Struggle for Africaはアフリカを見直そうという目的で、南部アフリカとの連帯を掲げて活動していたスウェーデンのアフリカグループ(The African Groups of Sweden)が書いたアフリカ史で、1982年にスウェーデン語で出版された本の英語版です。

そのグループは、長年南部アフリカ諸国と連携して解放のために活動を続けていましたが、参考図書として使っていた選集The Liberation Struggle in Africa (Befrielsekampen i Afrika)に飽き足らずに、その選集に代わるものとしてThe Struggle for Africaを書きました。解放運動を支援する政府や州の先進的な方向性は認められるものの、それでもアフリカ全般、特に解放運動に関しては、学校図書もマスメディアも表面的で、スウェーデンの大衆に届く情報の数々に西洋の偏見(バイアス)がはっきりと見て取れたからです。

本が生まれた経緯を編者Mai Palmbergが前書きで次のように書いています。

「歴史背景と紛争の現実の問題をよく知った上で連携作業を進めるべきだと考えていましたので、アフリカの闘争で実際何が問題なのかを説明するために私たちは書籍を作りました。そして、アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したいと思っている人たちの間でも、私たちのグループ以外でも、この種の背景や分析を強く望む声があるというのがわかりました。

解放闘争に携わっている人たち自身の間でも、こういった事実や分析の必要性が非常に高いとわかって、書籍を作るという発想が生まれました。もちろん、南部アフリカの解放闘争の背景をもっとよく知りたい人すべてに役に立てばと思いますが、同時に、書籍が読まれる所で連帯関係が強まればと願っています。」

 The Struggle for Africa は9章からなり、最初の3章がアフリカ史全般、4~9章が南部諸国の解放運動についてです。

1章はアフリカの植民地化、2章は独立運動と植民地時代の終焉、3章が第二次世界大戦後の新しい形の支配体制(「新植民地支配」)。

4章は、ギニア・ビサウとカーボベルデ、5章はモザンビーク、6章はアンゴラ、7章はジンバブエ、8章はナミビア、9章は南アフリカの解放運動についてです。

ションバーグコレクションからの帰りに立ち寄ったリベレーションブックストアで、「アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したい」と考えていた日本人がたまたまこの書籍を発見し、その本を軸にアフリカ史の入門書として2冊の英文書 Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998)を書いて、その後大学のテキストとして使うことになったというわけです。

「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送された8回シリーズ(各45分)の番組です。英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。

30年以上も前のものですが、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介し、後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていています。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだと思います。

バズル・デヴィドスン

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」です。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語です。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半です。

西欧が自らの理不尽な侵略を正当化するために捏造した白人優位・黒人蔑視の意識、現在の資本主義社会の方向性を決めた奴隷貿易、解決策としての「先進国の経済的譲歩」を軸にして、バズル・デヴィドスンはシリーズ全体を展開しています。

白人優位・黒人蔑視―デヴィドスンは番組の冒頭で、ジンバブエの遺跡グレートジンバブエなどを紹介しながら、500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を如何に浸透させて来たかについて、次のように語っています。

アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病なのです」と断言しています。

18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

奴隷貿易―そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べています。

では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

経済的譲歩―そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいます。

援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。「最終回 植民地支配の残したもの」

今回の科学研究費の「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」もこうした背景から生まれました。(宮崎大学教員)