アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)
MLAのためにサンフランシスコに行ったのは1987年の暮れのことです。二年前のシンポジウムでの別れ際に伯谷さんから「サンフランシスコは日本から一番近いから、家族といっしょにいらっしゃいよ。」と言われた当初、日本から一番近いと言われてもなあ、と思いましたが、結局、子供二人に奥さんといっしょに行きました。まだ定職も見つからない状態でしたが、フルで務めていた奥さんの「ビジネスクラスで行こ」という提案に逆らう理由もなく、5歳の長男には「13時間の飛行はきついやろな」と、一度ハワイに立ち寄ってから行くことにしました。(飛行機代金は4人で二百万ほどだったと思います。)
ワイキキの浜辺
兵庫県の明石に住んでいましたので伊丹空港から、結構寒い12月24日の夜中の便でした。目が覚めたら、早朝の真夏のハワイが広がっていました。クリスマスだけあって、赤い服を着たサンタクロースがワイキキの浜を歩いていました。厳しい陽射しで、サンタさんもきっと大変だったでしょう。
時差はなかったものの真冬から真夏の突然の激変に体もびっくりしたと思いますが、海の見えるホテルはなかなか快適でした。ワイキキの浜で遊んだり、浜辺の日本食の店屋で食事をしたり。それからサンフランシスコに。わりと穏やかな天気で、秋の半ばくらいの雰囲気でした。
海の見えるホテルで長女と
海外での発表は初めてでした。ミシシッピの会議でファーブルさんとお会いし、英語をしゃべろうと思ったものの、すぐにとは行きません。英語に慣れるのも兼ねて、会議の翌年の夏にミシシッピを回りました。81年の最初のアメリカ行きで叶わなかったライトが生まれ育ったミシシッピです。サンフランシスコ→ニューヨーク→ニューオリンズ→ジャクソン→ナチェズ→グリーンウッド→メンフィス→シカゴ→サンフランシスコの行程で、ライト縁の土地に行きました。ただ、2週間ほどでしたので、言葉に少し慣れた頃に帰国、でしたが。
→「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」(続モンド通信4、2019年3月13日)→「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」(続モンド通信5、2019年4月20日)
ミシシッピ州ナェズ空港
手元に、神戸の英会話学校「ベルリッツ」の領収書が残っています。すっかり忘れていましたが、高い授業料(領収書には30 courses, 221,000, 9/6/85とあります。ミシシッピの会議の前に通い始めていたようです。)を払ってでも英語に慣れたいという思いが強かったんでしょう。他に、大阪工大に提出した稟議書も残っていました。最初に詳しい説明もなく、週に二日の出講でしたし、その意識もありませんでしたが、嘱託講師も、表向きは専任教員だったようで、シンポジウムの申し込み書には、Lecturer, Osaka Institute of Technologyと書いていました。MLAのName PlateにもOsaka Institute of Technologyと書かれています。
→「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」(続モンド通信13、2019年12月20日)
大阪工業大学(大学ホームページから)
発表はラ・グーマの初期の作品A Walk in the NightとAnd a Threefod Cordの象徴性についてでした。やり始めて1年余りで、背景となる南アフリカの歴史やラ・グーマについても蓄積がない中での発表でしたので、「聞きに行くのも気の毒だから・・・・」とセスルが言ったような内容だったと思います。English Literature Other Than British and Americaという伯谷さんが司会の小さなセッションで、聞きに来た人も少なく、質疑応答もありませんでしたが、貴重で、稀有な機会となりました。後に発表内容を元に練り直して、日本の雑誌で活字にしました。→“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”(「言語表現研究」12号73~79頁、1996年。)
発表会場で、伯谷さんと
ミシシッピの会議に一緒に参加した木内さんも、ライトのセッションで発表していました。木内さんはその後毎年MLAに行って役員にもなり、トニー・モリソンやライトの翻訳書や、ライトのHAIKUについての伯谷さんとの共著書も出版しました。ライトのHAIKUについてはJapan Timesでコラム欄を担当、すでに退職していますが、あと一冊ライトのまとめを出すのが最後の仕事だ、と一昨年に会った時に話をしていました。
会場での木内さん
サンフランシスコは4回目でした。東海岸までの直行便はきついですので、サンフランシスコで何日か過ごしてからニューヨーク方面に行くことにしていました。家族と一緒は初めてで、地下鉄やケーブルカーにも乗り、タクシーでゴールデンゲートブリッジと漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)に行きました。どこも観光名所です。漁夫の波止場の39埠頭(Pier 39)辺りのレストラン街にいきましたが、クリスマスシーズンでどの店も一杯で、唯一空いている店に入ったら、飛びきり辛いメキシコ料理店でした。漁夫の波止場の場面が登城する旅番組を今でも英語の授業で使うことがあります。医学科の一年生は全部の科目が必修で、リスニングも選択肢の一つにした時期がありますが、その材料の一つとしてNHKの衛星放送で録画した旅番組も使いました。非常勤で行っていた宮崎公立大学でリスニングに特化した選択クラスを頼まれた時にも旅番組を使いました。サンフランシスコの映像はオーストラリアのテレビ局のもので旅情をかき立てるような20分ほどのもので、比較的聞き取りやすく、英語と日本語の違いなどを説明するのに適した材料でした。カリフォルニア大学アーバイン校で6年次に小児科と救急で臨床実習を受ける学生のための講座で、実習の直前に用語とリスニングのoral checkをした時にも使いました。さすが本場で実習を受けるために一年生から準備しただけあって、かなり早口の映画の場面などを使って英問英答でチェックしたのですが、大体の人が言っている内容を把握して適切に答えていました。大学に入って来たときは入試のために準備をしただけで英語がほとんど使えない人たちが、臨床実習という短期の目標を設定して本場アメリカの救急や小児科で支障なく英語をこなす学生と接して、出来るもんやなあと感心していました。小児科で実習を受けた学生の一人が、授業で見せてくれた場面ですよね、と後輩のための実習王国といっしょに漁夫の波止場の写真を送ってくれましたので、英語科のホームページに載せたことがあります。→「2015/06/20 June 20(石﨑友梨)」(英語科ホームページ「songkla diary・Irvine diary – ソンクラ・アーバイン通信」)
→「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」(「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)
タクシーの運転手さんといっしょに
セスルとローズマリーさん、家族といっしょに
MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。
→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)
→「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(続モンド通信14、2020年1月20日)
なかなか専任の口は決まりませんでしたが、ライトから始まってガーナの独立とエンクルマ、そして南アフリカとラ・グーマへと、知らず知らずのうちに世界が広がっていたようです。(宮崎大学教員)