2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜10:「大阪工業大学」

大阪工業大学(ホームページより)

大阪工業大学は私の「大学」の第一歩でした。

1983年3月に修士課程を修了したものの、博士課程はどこも門前払い(→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」2019年8月20日)、途方に暮れていましたが、4月から大阪工業大学夜間課程の英語3コマを担当出来ることになりました。業績も2本だけでしたが、結果的にこの3コマが、それからの「大学」の教歴の第一歩となりました。

一度非常勤を始めると他からも声をかけてもらえるようで、当時は1コマが100分、一番多いときは週に16コマを担当、一日の最多授業数は5コマ。専任の話も3箇所決まりかけましたが、5年間は浪人暮らし。最後の2年間は嘱託講師、この時の2年分の私学共済の年金が出ていますので、文部省向け任期付きの専任扱いだったようです。

大阪工業大学ではLL(Language Lavoratory)教室を使わせてもらいました。LL装置と補助員3名の予算も付き、昼夜間とも、一般教育の英語の授業で使われていました。関連の雑誌や新聞などを使い、映像や音声や中心の授業が出来たのは幸いでした。補助員のESS(English Studying Society)の学生3人には、ビデオの録画やコピーなど、色々助けてもらいました。

終戦直後に生まれ、小学生の頃からテレビや電化製品の普及に伴う急激な生活様式のアメリカ化を経験しましたが、どうも心がついて行きませんでした。元々アメリカとその人たちの母国語としての英語への反発もありましたし、中学校や高校での入学試験のための英語にも馴染めませんでしたので、大学では英語そのものより、一つの伝達の手段としての英語を使って何かが出来ればと考えました。結果的に、後の原点になりました。

リチャード・ライトの作品を理解したいとアフリカ系アメリカ人の歴史を辿る過程で読んだLangston Hughesの”The Glory of Negro History” (1958)がテキスト(青山書店)、Alex HaleyのRoots (1977)とバズル・デヴィドスンのAfrican Series(NHK, 1983、45分×8)が映像の軸でした。まだアフリカのことをやり始めたばかりでしたので、The Autobiography of Miss Jane Pittman、The Crisis at Central High(「アーカンソー物語」)、We Are the Worldなどの貴重な映像も手に入れました。

ラングストン・ヒューズ

ルーツの主人公クンタ・キンテ

バズル・デヴィドスン

一般教養の英語だったのは幸いです。受験のための英語から言葉としての英語への切り替え。偏差値で煽られ答えの解った謎解きを強いられる中で意図的に避けられている問題を取り上げて、自分と向き合い、自分や社会について考える、それまで気づかずに持っていた価値観や歴史観、自己意識を問いかけるという後の授業形態がこの頃に出来上がったように思います。(宮崎大学教員)

大阪工業大学の紀要には以下の4つを載せてもらいました。↓

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son" Chuken Shoho, 1986, Vol. 19, No. 3: 293-306.

“Richard Wright and Black Power” Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1986, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」 「中研所報」(1988年)20巻3号359-375頁。

1976~89年の執筆物

概要

編集を担当した「黒人研究の会会報」22号の「あとがき」です。

1954年に創立された黒人研究の会に、81年の秋から、7年ほど入って例会に出たり、月例会の案内やら、会誌や会報の編集のお手伝いをしていました。

黒人研究の会の例会があった旧神戸市外国語大学(大学ホームページより)

本文

会誌55号を九月中旬に刊行するという約束を果たされた編集部代表の須田さんは、現在、アメリカの地。

アメリカだより、モロイセ氏の処刑、ライトのシンポジウムなど、「最新」の記事が集まりました。会報の充実を望んでいらっしゃった貫名さん、喜んで下さっていますか。

編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名義隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩がえしにふさわしいものにしたいと念じています。それが30年余の歴史を継承する次の布石のひとつとなりますように、と祈りながら……(玉)

貫名さん

執筆年

1985年

収録・公開

「黒人研究の会会報」 22号 12ペイジ

 

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(作業中)

つれづれに

2019年10月15日

久しぶりの更新です。

10月やと言うのに暑い日が続いています。それでも朝晩や、風には秋の気配が。今週末に台風が過ぎ去ったら、一気に秋になりそうです。

今年の畑は南瓜畑。東京では2,3千円もするのがわかった瓢箪南瓜が好評で、9月の個展に今年も一箱送りました。

 

この前の台風で全体が傾いていますが、すでに盛りは過ぎています。


 

一個が二千数百円で駅市場に出てるよと言われて、うそやろと思いましたが。そのあと神戸の元町の商店街を歩いているときに同じものをみましたが、数百円、宮崎の道端では2,3百円で売られてるのをみて、やっぱり東京だけなんやと合点がいきました。

今年は希釈した酢をまけば大丈夫やないかもと淡い期待を抱いて9月の初めと半ば頃に大根の種を蒔いたものの、やっぱりこの惨状↓

近くでは8月の終わりか9月の初めに切り干し大根用の種がまかれますが、虫にやられてる気配なし、相当薬をまいてるんやろなあ。おまけに化成肥料の白い粒をまいてる光景をよくみかけるので、ぱんぱんに太らせた大根を千切りにして干し店に出されている切り干し大根を買っている姿を見ると、これ買うしかしゃーないんよなあ、と思ってしまいます。

ほかにおくら。↓今までのと違う種類で、日持ちがいいみたいです。前のは取ったらすぐ食べないとすぐ固くなったり傷んだりするので、お百姓さん大変やろな。冬場にタイのおくらが出回るけど、タイから運ぶとなると、ポストハーベスト結構きついんやろな、と思うと食べられへんねえ。そう言うてたら、食べるのもなくなる、ま、より安全なものを食べるしかない→より安全なものを食べるには、お金がかかる、大変な世の中やなあ、ほんま。

夏休みの間に結構書いて、ブログも更新しました。ブログへの移行は、まだしばらくかかりそうですが。

去年の4月に「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で科学研究費を交付されたのを機に、高校の教師を辞めて大学を探してた時のことをいろいろ書きました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2019年3月13日)「続モンド通信」に連載

一番最近のは→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」(2019年9月20日)「続モンド通信10」

ラ・グーマについても書きました。→→「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「言語表現研究」(2020年3月)37号(収載予定)

やっと引っ越しできそうな気配でしたが、うまく行かず、今しばらく宮崎にいることになりそうです。後期の授業も始まっています。きのうで一巡、結構プリントの準備もあって、といつも通りです。

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜8:「黒人研究」

前回→「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

この修士論文やったら、セクトが強いと言われる神大は無理やろけど、「リベラルな」京大か市大なら何とか入れてくれるやろという甘い考えは見事に打ち砕かれましたが、印刷物が残せるように修士課程に入った1981年にすでに黒人研究の会に入り、毎月の例会にも参加し始めていました。

研究会のことは詳しくは知りませんでしたが、学内の掲示板に発表の案内やらが掲示されているのを目にしたこともありましたし、修士論文に取り上げた作家がアフリカ系アメリカ人のリチャード・ライトで、小林さんが会誌の編集長をしてはったこともあって、自然に研究会に参加することになりました。

黒人研究の会はアメリカ文学のゼミ担当者だった貫名義隆さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めたようで、会報「黒人研究」第1巻第1号(1956年10月)には「研究会は黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする。」「本会は上の目的を達するために次の事業を行う。1 研究例会 2 機関紙の発行 3 その他必要な事業」とあります。当時の会費は30円で、会員は16名。会報はB5版で8ページのガリ版刷りです。

会報「黒人研究」第1巻第1号

貫名さんがお亡くなりになった時、依頼があって追悼文を書きましたが、それが出版社の初めての印刷物になりました。

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ごんどわな」1986年6月号)

「ごんどわな」1986年6月号

僕が参加し始めた頃、研究会の活動は低調でした。50年代、60年代のアメリカの公民権運動の頃の全盛時と比べると、会員もだいぶ減り、何とか発行を続けていた会誌「黒人研究」も、なかなか原稿が集まらず、資金も底をついているようでした。

月例会に出て、口頭発表もしました。そのうち、会誌と会報の編集や例会案内もするようになりました。正確には覚えていませんが、毎月百人近くの人に案内を出していたように思います。例会も月に一度行われ、年に一度の総会には九州や関東からも会員が集まっていました。その頃の例会の発表で聞いた本田創造さんの著書『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も、その後の英語の授業での学生向けの参考資料の一つになりました。貫名さんの親友だったようで、当時は一橋大学の歴史の教授で、『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々でした。

「アメリカ黒人の歴史」

月例会で発表したものをまとめて「黒人研究」に出しました。その後研究会を辞めることになりましたが、退会までに6つ、「黒人研究」にお世話になりました。↓

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)

「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」が最初の印刷物です。

それと、研究会創立30周年に記念に出した『箱舟、21世紀に向けて』の中に「リチャ-ド・ライとアフリカ」(横浜:門土社、1987年6月)を入れてもらいました。

①「リチャ-ド・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」(52号、1982年6月)は、中編ながらライトを理解する上で鍵を握る「地下にひそむ男」("The Man Who Lived Underground")のテーマと視点を評価した作品論です。ライトは人種差別体制に対する「抗議作家」として高い評価を得ていましたが、その評価にはあき足らず、この作品で、主人公が逃げ込んだマンホールで垣間見た「現実の裏面」という新たな視点から、虚偽に満ちた社会への疑問や、物質文明に毒された社会の価値観への問いかけなどを通して、より普遍的なテーマへの広がりを見せ始めていた点を中心に書きました。1984年5月の月例会での発表「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』の擬声語表現から」を元に加筆しました。

「黒人研究」52号

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」52号1~4頁(1982年6月)

②「リチャ-ド・ライトと『残酷な休日』」(53号、1983年6月)は 、テーマの広がりという点に着目し、前作『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)と同様に、この作品が現代文明の抱える疎外や不安などを題材に、西洋文明が社会における個人の存在をいかに蝕んでいるかを描き出している点を評価しました。ただ、1947年にパリに移り住んでから発表された作品の評価は必ずしも高くありませんし、作品に力がないなあという感じは否めませんでした。1983年11月の月例会での発表「リチャード・ライトと『残酷な休日』」を元に加筆しました。

「黒人研究」53号

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」53号1~4頁(1983年6月)

③「リチャ-ド・ライトと『ひでえ日だ』」(54号、1984年12月)は、死後出版の『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963)の作品論である。作家として評価される前に書かれた習作だが、小説として勢いがある点を分析・評価した。大都会シカゴの黒人労働者層の日常生活を描くなかで、人種主義を孕むアメリカ社会の矛盾と自分たちの窮状に気付かない愚かしさを炙り出しており、後の出世作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)や『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)を生み出す土壌となっている点も評価した。

「黒人研究」54号

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」54号33~38頁(1984年12月)

④「リチャ-ド・ライトと『ブラック・パワー』」(55号、1985年9月)は、パリに移り住んで作家活動をしていたライトが、いち早くアフリカ国家の独立への胎動を察知してガーナ(当時はイギリス領ゴールド・コースト)に駆けつけ、取材活動をもと書いたもので、大衆に支えられる指導者エンクルマとイギリス政府と政府に協力する反動的知識人の三つ巴の独立闘争の難しさを見抜いている洞察力を高く評価しました。その後アフリカについて考えれば考えるほど、当時のライトが肌は同じながら西洋のバイアスの濃いアメリカ人に過ぎなかったという思いが募るようになりました。

「黒人研究」55号

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」55号26~32頁(1985年9月)

⑤「リチャ-ド・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(56号、1986年6月)は、ライトの作家論・作品論で、2つの重要な役割を指摘しました。一つは、それまでにライトが発表した物語や小説の作品背景の一部を審らかにした点です。もう一つは、歴史の流れの中で社会と個人の関係を把え直す作業の中で、未来に生かせる視点を見い出し始めた点です。疎外された窮状をむしろ逆に有利な立場として捕えなおす視点が、コミュニズムに希望を託せなくなっていたライトには、ひとすじの希望となり、その視点が、やがて「地下にひそむ男」と『ブラック・ボーイ』を生んでいます。少数の支配者層に搾取され続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」であるとともに、ライトの心の「物語」になっている、と指摘しました。

「黒人研究」56号

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」56号50~54頁(1986年6月)

⑥「アパルトヘイトとアレックス・ラ・グーマ」(58号、1988年6月)は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」で発表した内容を元に、小林さんを含め4人が書いたものです。私はラ・グーマと南アフリカについて発表したものに加筆しました。

大阪工業大学でのシンポジウム

「黒人研究」58号

⑦『箱舟、21世紀に向けて』は、黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」と「現代アメリカ女性作家の問いかけるもの」を軸に、二人のアメリカ人作家とアメリカ黒人演劇の歴史をからめたもので、私はアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について書きました。小林さんほか11名が共著者です。

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ。

「リチャード・ライト死後25周年記念シンポジウムに参加して」(1985年12月)、「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(1987/10)、「アレックス・ラ・グーマとセスゥル・エイブラハムズ」(1987年10月)なども発表しました。

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」

今回の科研費のテーマ「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」は、この頃、ライトの作品を理解するためにアフリカ系アメリカの歴史を辿り、その過程で奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き、誘われたMLAで南アフリカのラ・グーマを取り上げたことで、今も形を変えて続く侵略の系譜を考える中で生まれたもので、この「黒人研究」もその下地になっていると思います。(宮崎大学教員)