2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜13:「ゴンドワナ (3~11号)」

 大学のゼミの担当者だった貫名さんが亡くなられて暫くしてから、大阪工大でもお世話になっていた小林さんから追悼文を書かないかと誘われました。横浜の門土社が発行中の雑誌に追悼集を組むからということでした。それが門土社との出会いです。

夜間課程はゼミが一年だけでしたが貫名さんのゼミを取りましたし、研究室に行ったり、卒業してから貫名さんが創られた黒人研究の会で研究発表もしていましたが、実際には定年間際の貫名さんとは何回かお話ししたくらいでした。英書購読の授業やゼミでのことを思い出しながら、何とか書いたのが、最初の依頼原稿となりました。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。)

「ゴンドワナ」3号

その前か後か、出版社の人と会うことになり、横浜で社長さんと編集者の方と三人で話をしました。それから暫くして、宮崎での話が決まり、医学科での授業も始まりました。元々小説を書くための空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取りに行きましたから、僕としては書くための空間さえあれば充分でした。いつの頃からか、立原正秋という人の小説が僕の中では生涯のモデルとなり、同じように職業作家になって直木賞をと漠然と考えていましたが、社長さんから直木賞も本を売るための出版社の便法で意味がないと窘められました。大学の教員には授業などの教育以外に研究や社会貢献も求められますので、専任になっても当座は小説を封印、大学の流れにまかせようと何となく心に決めました。

出版社は演劇、アフリカ関係の本や大学のテキストが中心で、独自の雑誌「ゴンドワナ」も創り始め、黒人研究の会の人も投稿しているようでした。気に入って下さって、ちょうどラ・グーマをやり始めた頃から書きませんかと誘って下さるようになりました。当初から計画があったわけではありませんが、その後、誘われるままに本も7冊、雑誌にもせっせと原稿を書き、翻訳も三冊やりました。「ゴンドワナ」は19号まで出ましたが、今回は3号から11号までに載った原稿についてです。

雑誌「ゴンドワナ」創刊号の表紙に1984年9月とありますから、最初にお会いした少し前に創刊されたようです。後に一部送ってもらった創刊号はA5版(A4の半分)32ページの小冊子で、定価が600円。ハイネマンナイロビ支局のヘンリ・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿も含め、アフリカや演劇関係の記事が大半です。アフリカ関係の民間の雑誌は、アフリカ本の出版がかなり多かった理論社のα(アルファ)という雑誌でも7号で廃刊、それだけアフリカものの出版は経済的に厳しかったわけです。その意味では19号まで出たのは、時期を考えても驚異的です。元々アフリカや演劇関係の読者層は圧倒的に少なく、採算が取れるとは考えられないからです。当然、原稿料はありません。

「ゴンドワナ」創刊号

3号(1986年)の貫名さんの追悼号の次に原稿を送ったのは7号(1987年)の分で、コートジボワールの学者リチャード・サマンさんが1976年にタンザニアで行なったラ・グーマへのインタビューの日本語訳と、それに関連する当時のアフリカ事情について書いた評論です。ミシシッピの会議でお会いしたソルボンヌ大のファーブルさんがラ・グーマを始めた頃に大学発行のAfram Newsletterという英語の雑誌を送ってくれるようになって、その中にサマンさんの記事を見つけました。ファーブルさんに翻訳をしてもいいですかと手紙を書いたら、本人に直接聞くように住所を教えてくれました。アフリカにはフランスに植民地化された国も多く、フランスの同化政策の影響もあって、パリが文化の拠点で、たくさんのアフリカ人がパリに留学したりしています。サマンさんのその一人のようでした。ジンバブエの帰りにパリに寄って家族でファーブルさんを訪ねた時に宿の世話をしてくれた女性もモロッコからのファーブルさんの学生さんで、子供たちはその人のことをモロッコさんと呼んでいました。日本に比べてアフリカとは地理的にも近く、特に北アフリカや西アフリカとは色んな意味で関係が深いようです。マリのサリフ・ケイタやセネガルのユッスー・ンドゥールなどの歌手も、パリを拠点にして世界的に有名になっています。→「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」(19-24頁。)と→「アフリカ・アメリカ・日本」(24-25頁。)

「ゴンドワナ」7号

次は8号(1987年)で、ラ・グーマが闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿りました。最初に大きな影響を受けた父親ジェームズさんと少年時代について。それからANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に参加し、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わりながら、作家としても活動したことなど。最後に、ブランシさんと結婚し、反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(22-26頁。)

「ゴンドワナ」8号

次は9号(1987年)。1956年の反逆裁判から1966年のロンドン亡命まで。ANC、共産党員として解放運動の指導的な立場にいたラ・グーマは、「南アフリカで起きていることを世界に知らせたい」「後の若い世代に歴史の記録を残したい」という思いから作家活動も続けました。最後に、亡命の道を選択したラ・グーマの生き方について書いています。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(28-34頁。)

「ゴンドワナ」9号

次は10号(1987年)。ラ・グーマを知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文と、作品・作家論の3作目です。紀行文では、見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめました。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(10-23頁。)

作品・作家論では、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(24-29頁。)

「ゴンドワナ」10号

次は11号(1988年)、アメリカ映画「遠い夜明け」(CRY FREEDOM)の映画評とケニアの作家グギさん関連の日本語訳とラ・グーマの作家・作品論の続編です。

映画評は1987年に上映された「遠い夜明け」で、主人公ドナルド・ウッズが亡命する姿を、ウッズより先に同じように亡命したラ・グーマとセスゥルに重ね合わせて書きました。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(22-28頁。)

日本語訳は、ムアンギさんが書いたグギさんについての作品論を日本語訳したものです。ムアンギさんとは、1982年か83年かに黒人研究の会で初めて会いました。黒人研究の会でのシンポジウムや大阪工大での非常勤も一緒でした。四国学院大学の専任になったあと、宮崎医科大学でいっしょにシンポジウムもやりました。→「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」(34-38頁。)

ラ・グーマの作家・作品論は、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)についての前半です。夜のイメージをうまく使い、アパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出している点を高く評価しました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(39-47頁。)

「ゴンドワナ」11号

専任が決まらない時期でしたが、たくさん書きました。宮崎医科大学に決まった翌年に「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で初めて申請して科学研究費[一般研究(C)1989年4月~1990年3月(1000千円)]が交付されたのも、出版物が多かったからだと思います。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

2 アングロ・サクソン侵略の系譜9:「言語表現研究」(玉田吉行)

前回紹介した「黒人研究」(→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)のほか、主に兵庫教育大学大学院の教官と院生が投稿する「言語表現研究」でも印刷物にしてもらいました。国語と英語の分野の教官と院生の発表の場で、毎月例会も行われています。院生の大部分が現職の教員でもありますので小中高校の英語教育も研究分野です。今まで

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」2号(1984年)

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」4号(1985年)

③ “Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels” 12号(1996年)

④ “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy" 19号(2003年)

が活字になりました。

①「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」は、乾亮一氏の「擬声語雑記」とOtto Jaspersenの“Sound Symbolism”を借用し、テーマとからめて擬声語表現の分析を試みた作品論です。パトカーのサイレンの音swishやマンホールの音clang, clankやタイヤの軋む音rumbleなどが効果的に用いられて臨場感を醸し出しているだけではなく、テーマとかかわる象徴性も表現していることなどを論証しました。

Michel Fabreさん(当時ソルボンヌ大学教授)の伝記The Unfinished Quest of Richard Wright『リチャード・ライトの未完の探求』に感動して、その人の評価を聞いてみたいと思い翻訳して本人に郵送しました。ミミシッピ大学でのライトの没後25周年国際シンポジウム(1985)ではライトの他の作品での擬声語表現についての発表があり、ゲストスピーカーであったFabreさんから、その発表と関連してこの作品論の評価も聞きました。パリはライトが後年移り住んだ地でもあります。1992年のジンバブエからの帰りにFabreさんの自宅にお邪魔して、色々な刺激を受けました。

「言語表現研究」2号

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」2号1~14頁、1984年2月

②「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」は、代表作『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の冒頭部の擬声語表現を象徴性と隠喩の面から評価した作品論です。冒頭に巧みに用いられた目覚まし時計の音などの擬声語が、展開される物語の慌ただしさや住環境の劣悪さを象徴している点を指摘しました。ライトは主人公が殺人を犯して逃げまどい、やがては裁判にかけられて社会から葬りさられる運命と、逃げ回って殺される鼠の運命を重ね合わせて「黒人はアメリカの隠喩である」という問題提起をしていますが、それが巧みな擬声語表現に裏打ちされている点も指摘しました。

「言語表現研究」4号

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」4号29~45頁、1985年2月

③“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”は、ラ・グーマの初期の作品に見られる文学手法に焦点をあてた英文の作品論です。抑圧の厳しい社会では政治と文学を切り離して考えることは出来ませんが、作品を政治的な宣伝でなく文学として昇華出来るかどうかは、作者の文学技法によります。ラ・グーマの使うリアリズムとシンボリズムの手法が、読者に期待感を抱かせる役割を果たしている点を指摘しました。1987年のMLA (Modern Language Association of America)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで発表したものに加筆しました。

「言語表現研究」12号

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁、1996年3月

④"Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"は、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴの英文の作家論、作品論です。本人は亡命しているわが身を「座礁した」と形容していますが、独立戦争後反体制側にまわり、逮捕・拘禁され、亡命を余儀なくされますが、その経緯を書いた『政治犯、作家の獄中記』(Detained: A Writer’s Prison Diary, 1981)、作家の役割と政治の関係を論じた『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)、体制を脅かした直接の原因となったギクユ語の劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)を軸に、亡命の意味とグギの生き方を論じました。

「言語表現研究」19号

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy"「言語表現研究」19号12~21頁、2003年3月

言語表現学会では「アンクル・トムの子供たちの恐れと抗い」(1982年10月)と「Richard Wrightの対比的表現初期短篇数編から」(1986年4月)を口頭発表しました。一回目は院生の2年目、修士論文を書いている最中で、二度目は就職浪人中でした。

修士論文を書いた延長で、リチャード・ライトの没後25周年国際シンポジウム(1985年ミミシッピ大学)に参加し、本の中でしか知らなかった人たちや、憧れのファーブルさんにも会えました。その縁でMLA (Modern Language Association of America, 1987年、サンフランシスコ)のEnglish Literature Other than British Americanのセッションで、南アフリカのアレックス・ラ・グーマの発表が出来ました。

MLAで伯谷さんと

その準備の段階でラ・グーマの伝記『アレックス・ラ・グーマ』の著者セスゥル・エイブラハムズさんとも出会い、ラ・グーマの記念大会に呼んでもらえました。その中で①~③は生まれました。

セスゥル・エイブラハムズさん

④は『作家、その政治とのかかわり』(Writers in Politics, 1981)の翻訳を頼まれて、グギさんの作品を大体読んで背景を知る過程で、まとめの意味もこめて英文で書きました。

ライトもラ・グーマもグギさんも結構多作で、先ずは作品を集めることから始め時間もかかりましたが、アングロ・サクソン侵略の系譜の中から生まれた作家だと実感しました。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

概要

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告していますが、前号でご紹介したシンポジウム「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)の続きで、五番目の発表者天満雄一氏の報告です。今回が最終報告です。

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(6):天満雄一氏の発表

会場で紹介するために司会進行役の南部みゆきさんが予め本人から聞いていたアフリカ滞在歴と経歴は以下の通りです。

「天満雄一(てんまゆういち)宮崎大学医学部医学科6年

2007年3月11日より24日までザンビアに滞在。学生団体IFMSA-Japan(国際医学生連盟 日本)で友人とAfrica Village Projectを立ち上げ、TICOというNPOの協力のもと現地の健康意識調査等を行いました。また、2007年7月30日から8月10日までマダガスカルに滞在し、jaih-s(日本国際保健医療学会学生支部)のプログラムを通じて、JICAの運営するマダガスカル母子保健プロジェクトの活動視察を行いました。」

発表ではパワーポイントのファイルを使ってたくさんの写真を紹介していますが、写真は省いてあります。

「ザンビア体験記:実際に行って分かること」    天 満 雄 一

天満雄一氏

ザンビアに行ったのは2008年の3月で、IFMSA-Japan(国際医学生連盟)という学生団体での活動がきっかけでした。IFMSAは1951年に設立されたフランスに本部に置く、医学生を中心とした国際NGO団体で、100ヶ国以上の国の医学生が何らかの形で活動しています。IFMSA-JapanというのはIFMSAの日本支部で、現在医学部を有する51の大学が加盟し、約500人の医療系学生が活動しています。

ここの団体の活動で出会った他大学の学生との「アフリカに行きたいな。」という他愛もない話が、ザンビアに行くきっかけとなりました。アフリカに行くなら、単なる旅行ではなく、目的を持ったプロジェクトで行こうということになったのです。ただ、アフリカに行き何らかの活動をするといっても、はじめは何をしていいかわからず、そこで実際にアフリカで活動しているNGO団体を探し連絡をとることから活動をはじめました。その時にTICOという主にザンビアで活動する徳島のNGO団体に出会い、協力してもらえることとなり、そういった経緯から目的地がザンビアに決定しました。

ザンビアはサハラ以南の国で、面積は日本の約2倍、人口は約1200万、73もの部族が存在し、公用語は英語となっていますが、それぞれの部族でそれぞれの言語を使用し、教育を受けていない大人や、街からはずれた場所では、英語を理解できない人も多く見られます。また、世界3大瀑布の1つであるビクトリアの滝やサファリなど多くのあるがままの自然が残っている国です。

アフリカの地図

UNICEFのデータによると、2004年時に比べて2009年には大幅に経済や教育指標の改善が見られました。HIVの感染率も2004年に16. 8%であったのが、2009年のデータでは13. 5%とまだまだ高いものの、データとしては大幅な改善が見られました。しかし、私は実際にザンビアに行った経験より、これらのデータが必ずしも現状を表した正しい数字を示しているとは限らないのではないかと思います。

私は他のメンバーとともに現地に行き、主に5歳以下の子どもを持つ母親を中心とした住人の健康意識調査や、井戸の水質調査、伝統的産婆へのインタビューに加え、病院や孤児院やJICAの運営するHIV/AIDSプロジェクトの見学をさせてもらいました。こういった活動に備えて、私はTICOにも協力してもらいながら、メンバーとともに1年以上の時間をかけて、ザンビアの現状やアフリカのことについて学び、そして計画を練ってきました。しかし実際に現地へ赴き活動してみて、いかに自分がアフリカについて、そしてザンビアについて知らなかったのかということを思い知らされました。例えば調査の中で、「どこで子どもを産みましたか?」という質問があり、それに対する答えとしては、診療所や病院、他には自宅や伝統的産婆の所という答えを想定して選択肢を設けていたのですが、10%以上の母親が路上という回答をしました。これはつまり、産気づいてからそれらの場所に向かおうとしたが、車などの移動手段がなく、またそれぞれの場所が離れているため間に合わなくなり途中で産まれてしまったという理由からでした。またその場合子どもが破傷風などの感染症にかかることも多く、実際に話を聞いた3分の1以上の母親が子どもを亡くした経験があるということも驚きでした。また、水質調査では井戸がいわゆる井戸ではなく、地面に穴を掘っただけの水たまりのような程度のものであり、そこで大腸菌が検出されたにも関わらず、住民が日常の飲み水や生活水として用いていることも衝撃を受けました。

HIV/AIDSに関しても同様に衝撃を受けることが多くありました。1つは孤児院の見学です。HIV/AIDSに関しては疾患自体の感染率や発症人数、それらの対処方法に目が行きがちですが、実際に疾患が社会に様々な影響を与えていることを孤児院の見学を通して感じました。訪れた孤児院で最も孤児である原因として多かったのは、AIDSによる親の死でした。AIDSは性交渉により感染することもあり、親が2人とも感染していることも稀ではありません。また親が生きていたとしても、感染による体調不良や片親であることを理由に孤児院に来た子どもは多いということでした。さらに、母子感染により生まれて間もないながらHIV感染が認められる子どもも多いとのことでした。そういったようにHIV/AIDSは目の前の患者だけではなく、次の世代にも多くの問題を残しているのだと感じ、ただ治療が良くなるだけでは解決できない問題の根の深さを感じました。

同様にJICAが行っているHIV/AIDSプロジェクトの見学の中でも、いろいろなことを考えされました。ザンビアではHIV/AIDSに対する薬を配布しており、診断がつけば患者は無料で薬を手にすることができます。今はHIV/AIDSの薬が良くなってきたこともあり、たとえHIVに感染したとしても、薬を正しく飲み続けられれば寿命を大きく損なうことはないのが現状です。それゆえに、そのような政策がとられているなら、今後はザンビアのHIV/AIDSの問題はだいぶ改善に向かっているのではないかと思いました。しかし、実際にその現場を見て話を聞き、それがそんな簡単な問題ではないことがわかりました。薬が無料で配布されていたとしてもそれを行う診療所や病院まで行く手段がないのです。最寄りの診療所や病院まで10km以上離れていて、そこまで歩く以外、バスや自転車などの交通手段がない状況でそれを受け取るだけに病院や診療所に定期的に通うのが難しい状況にある人が多くいました。また薬を手に入れてもそれを他の誰かに売ってお金にするという人がいたりなどというような現状があり、これも日本にいて入る情報だけではなかなか気づきにくいことだと思いました。

天満雄一氏

ザンビアに行った経験を一言で表すと「百聞は一見にしかず。」。プロジェクトを通じてザンビアに実際に行き、現地の状況を自分の目で見、そして現地の人の話を自分の耳で聞いて、多くの驚きと発見があったと同時に、自分が何もわかっていなかった現実を思い知らされました。インターネットや本で出てくる情報やデータだけでは、見えない現実も多くあることを実感しました。私は国際保健の分野に興味を持っており、将来的にその道に進むことも考えているのですが、今回の経験を通して、現場に赴き現状を自分自身で体感することが如何に大事かということを学びました。

またアフリカのことが好きな人や、今回のシンポジウムを通じてアフリカに興味が湧いた人は、是非機会があれば実際にアフリカの地を訪れ、自身の目や耳でアフリカを体験し、そしてアフリカを感じてきてもらいたいと思います。

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

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大学祭の翌週ということもあって参加者は少なかったのですが、毎日新聞の石田宗久記者が参加して下さって以下のような報告記事を翌日に掲載して下さいました。

アフリカの現実を知って 宮大医学部でHIVシンポ

HIV(ヒト免疫不全ウィルス)を通じてアフリカの保健事情を考えるシンポジウム
「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」が26日、宮崎大学医学部であった。玉田吉行教授(アフリカ文学)や医学生ら滞在経験のある5人が、貧困の背景や現地の医療事情などを語った。

アフリカの現実を知ってほしいと企画した。
海外青年協力隊でタンザニアに滞在した宮崎大出身の服部晃好医師は、世界のHIV感染患者推定数3330万人中、2250万人がサハラ砂漠以南のアフリカ在住とのデータを紹介。「奴隷貿易の歴史や先進国のアフリカ政策が国力のなさにつながっている」と指摘した。
玉田教授も「貧困がエイズ関連の病気を誘発している。開発や援助の名目で搾取されている」と先進国民の無関心さを批判した。
医学生3人はザンビアなどでNGO(非政府組織)の保健意識調査などに参加した体験を語った。
医学科6年の天満雄一さん(30)は、不十分な医療体制で子供を亡くした母親たちに話を聞いたといい「現地に行くまで全然分かっていなかった。将来は国際保健のために働きたい」と話した。【石田宗久】

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シンポジウムの報告もアフリカとエイズについても今回が最終回で、次回からは「アフリカ史再考」(仮題)を連載したいと考えています。この十年以上、色々な角度からアフリカとエイズについて考えてきましたが、その中で一番感じたのは、病気の問題を考えるのに社会や歴史や文化なども含めた包括的なものの見方が必要だということでした。1980年の初めにアフリカ系アメリカ人の文学を理解するために辿り始めたアフリカの歴史について、今までやってきたことのまとめの意味も含めて、もう一度考え直してみたいと思っています。(宮崎大学医学部教員)

石田記者

毎日新聞の報告記事

執筆年

2012年7月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 47」

ダウンロード・閲覧

(作業中)

2010年~の執筆物

概要

2011年11月26日に宮崎大学医学部で開催したシンポジウム「アフリカとエイズを語る―アフリカを遠いトコロと思っているあなたへ―」を何回かにわけてご報告していますが、前号でご紹介したシンポジウム「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)の続きで、四番目の発表者小澤萌さんの報告です。

天満氏によるシンポジウムのポスター

本文

シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告(4):小澤萌氏の発表

会場で紹介するために司会進行役の南部みゆきさんが予め本人から聞いていたアフリカ滞在歴と経歴は以下の通りです。

「小澤萌(おざわもえ)宮崎大学医学部医学科5年

2010年3月に、のJICAプロジェクトによる現地病院・NGO見学の目的で、3週間ケニアに滞在しました。」

発表ではパワーポイントのファイルを使ってたくさんの写真を紹介していますが、写真は省いてあります。

「ケニア体験記:国際協力とアフリカに憧れて」 小澤萌

小澤萌氏

私がアフリカに関心を持ったきっかけをお伝えするためにまず自己紹介を簡単にさせていただきます。
私は現在医学部5年ですが、宮崎大学入学前に関西学院大学総合政策学部総合政策学科国際関係コースを卒業致しました。以前の大学在籍中から国際協力に関心があり、旧ユーゴスラビア地域の難民支援や、日本での小学生から大学生に向けた開発教育普及の活動を行っていました。そのような活動を続ける中で、医療職として世界の人々の健康、いのちに携わる仕事がしたいと思い、医学部を志すようになり、今に至ります。医学部入学以後は「国際保健」という分野の勉強を始め、日本国際保健医療学会学生部会(略称jaih-s、以下jaih-s)という学生団体に属し、専門家の先生方のお話を聞いたり、同じ志を持つ仲間とのディスカッション、勉強会開催等を行う機会に恵まれるようになりました。

この「国際保健」分野を学ぶうちに、どうしても私が関心を持たざるを得なくなったのが、アフリカという場所です。私が国際保健をかじり始めた2007年当時の国際保健界の最大の関心事の一つであったのが、ミレニアム開発目標の達成であり、その中で保健分野のゴールの達成の遅れは問題となっていました。中でもエイズ、マラリアを始めとした感染症、母子保健の分野でのアフリカの数値の悪さは大きな問題であり、国際保健を今後も自分が続けて行くならアフリカの地を自ら踏み、現状をこの目で見て、なぜそんなにもアフリカが問題だと言われるのかを考える必要があるだろうと思っていました。

そこで巡り合ったのが、JICAのケニアでの「保健マネジメント強化プロジェクト」見学の機会です。この機会を得て、医学部3年生の終わり、2009年の3月に3週間ケニアを訪問することとなりました。このプロジェクトには、前述の私が所属するjaih-sの「国際保健 学生フィールドマッチング企画」(以下マッチング企画)で紹介を受けて、参加の機会を得ることとなりました。マッチング企画は、国際保健に関心を持つ学生に、見学の機会を提供できるという国際保健の専門家を紹介し、フィールド研修の経験を積ませることを目的とした企画です。なお、私が訪問させていただいた時は、受け入れ先の専門家の方の計らいで、このプロジェクト見学以外にも農村部約30カ所の水質調査、AIDS治療サポートNGO見学、現地の病院実習や農村地域でのホームステイなどを経験させていただくことができました。

ここでケニアの概要を少しご説明したいと思います。人口は約3430万人(2007年)であり東京都の約3倍、面積は日本の約1.5倍、公用語は英語です。多民族国家で、キクユ、ルオ、マサイなど約42の民族がいます。宗教はキリスト教徒が半数以上を占めます。私も現地で多くの諸派に別れてはいますが熱心なキリスト教徒に会いました。一人当たりのGDPは$809(2010年)で、アフリカの中では低くありませんが、日本 が$42,820であるのと比較するとその差は明白です。

 

ケニアの地図

次に、皆さんにケニアを身近に感じていただくために、数値だけではなく、私の感じた印象も交えてお話します。まず、人口約220万人を擁する首都ナイロビの気候ですが、一般的に暑いと思われがちなアフリカですが、標高が高いナイロビでは実は夜はとても冷え込み、セーターを着ている人がいるほどです。

ケニア人の性格ですが、一般的に「アフリカ人」というと、ダンスが好きで、明るい印象を持たれることが多いのですが、私の訪問した地域の民族「ルオ」族は、おとなしい民族性と言われており、実際寡黙な人が多かった印象です。少し、ケニアのイメージが湧いてきたでしょうか。ケニア概要の最後に、ケニアの保健医療事情をご説明します。

乳児死亡率(出生1000対)は81(日本3)、妊産婦死亡率(出生10万対)は1000(日本5~6)、5歳未満児死亡率(出生1000対)122(日本4)、15歳未満の子どもの数が全人口比 42%(日本13%)、出生時の平均余命57.86 才(日本82.3才)、HIV/AIDS感染率6%(日本0.8%)、低体重で生まれてくる子ども19%(日本9.7%)となっています。

以上、WHOのデータからの引用です。これらのデータも、アフリカの中では悪くないものの、日本と比較すると大きな違いがあることをご理解いただけるかと思います。

それでは私のケニアでの経験をお話させていただきます。
まずJICA「保健マネジメント強化プロジェクト」についてです。このプロジェクトは、JICAの近年の取り組みのひとつ「保健システム」の整備と強化を行うものです。「保健システム」とは行政・制度の整備、医療施設の改善、医薬品供給の適正化、正確な保健情報の把握と有効活用、財政管理と財源の確保、そしてこうしたプロセスを実際に動かしたり人々に直接保健医療サービスを提供したりする人材の育成と管理などの仕組み全体のことを指します。私が見学させていただいたプロジェクトは、具体的にはニャンザ州の「地方保健行政官のマネジメント」を主としており、ニャンザ州の地方保健行政官のリーダーシップ、人材・財政管理能力などの基礎的マネージメント技術の向上を基礎に、保健に関わる計画、実施、モニタリングや評価の能力、監督指導能力などの強化が目的とされていました。

ニャンザ州は、ケニアの中でも最もHIV感染率が高いと言われるという地域です。そのため以前から各国の保健機関やNGOが援助に入っており、実際ニャンザの街ではいたるところにそういった援助団体の看板やポスターを見かけ、病院ごとに援助先が決まっているところも多くありました。その一方、長年援助が入っているにもかかわらず、エイズ感染率などデータの悪さはなかなか改善されないことにより、行政の保健担当者は疲弊し、自信を失い、そのためにやる気をなくしている状態にあるということでした。そこでJICAのプロジェクトが注目したのが、既存の援助にあったようなモノ・カネでなく、ヒトであり、保健システムという大きな基盤を安定させるために人材育成を行うという目的を設定したのです。モノ・カネというリソースの利用ももちろん重要ではありますが、人材育成を目的としたプロジェクトということで、私たちも実際に現地の保健行政官の能力強化のための戦略ミーティングへの参加や、面接への同席など稀有な機会に恵まれ、保健行政官の生の声を聞くことができました。また、中央だけでなく、農村地域に出向き、地元の主婦らを中心としたコミュニティヘルスワーカー(地域保健員)の集まる集会にお邪魔したり、アメリカのNGOがコミュニティヘルスワーカーの人らに教育を行う様子を見学させていただくこともありました。途上国の農村地域では、病院等へのアクセスが悪いため、妊産婦であっても検診はもちろん出産の時も医師や看護師のいる病院へは行かず、地域の伝統的産婆のもとで出産し、適切な処置が行われず出血多量で亡くなることが多く問題となっています。そのような問題に対しコミュニティヘルスワーカーらは地域の家々を回るなどして、一軒ごとに病院へ行くことの重要さを説いて回るなどの活動を行なっており、一定の効果も上げています。

小澤萌氏

アジアなどに比べアフリカでは定着しにくいと言われていますが、ケニアの私が見学した地域では集会に来る主婦らに油や食糧などのインセンティブを送ることでコミュニティヘルスワーカーの増加を図ろうとしている欧米のNGOもありました。しかしそのようなインセンティブを送る行為は、確かに集会に来る人は増えますが、実際にその人の意識を「保健が重要だから集会に来る」と変えたことにはならず、一概に良いとは言えないのが事実です。

そのような状況を見る中で、一つ、とても印象に残ったエピソードをご紹介します。ある日、県の保健行政官を集めた定例集会に参加させていただきました。100人位が地域の集会場に集まり、それぞれの行政官の方が統括する各地域の保健状況の報告のプレゼンテーションを順にされていました。その最後に、私の研修担当をしてくださっていたJICA専門家の方が、プロジェクトの紹介のプレゼンをされており、そのプレゼンの主眼は地域の人々のモチベートにありました。現地のデータを見せながら、アフリカ、ケニア、ニャンザ州の良さも語り、オーディエンスが引き込まれていくのがわかりました。「あなた方ならできる。自分の住む地の健康を、自分で守ろう。」という、メッセージを載せたスライドを出し、人材育成プロジェクトの内容を語り、プレゼンが終わった最後に、何人もの人が立って大きな拍手を送っていました。それまでの何人かのプレゼンでは、居眠りしている人もいる位だったのに、大変な違いでした。この時私は、モチベーションとは万国共通であり、「あなたならできる」と言われることで、ケニアの人の表情がこんなにも明るくなるのだということを知りました。そしてもっとも頭の中に響いたのは「アフリカをアフリカにしているのは私たちである」という言葉です。これは、やはりJICA専門家の方の言葉なのですが、私たち、つまり先進国の人間の中に「アフリカは貧困の国だ」「どうやっても改善しない」という気持ちがあるために、問題の解決が遅れているのだという考えからの言葉です。例えば、コミュニティヘルスワーカー育成のためにインセンティブを送るというのも、ひとつの方法ではあるかもしれませんが、本当の行動変容ではありません。
それらを知識としては知っていても、自分もいつの間にかアフリカを「そういうものなのだ」と見てしまっていたことに気づかされました。これはおそらく多くの人も、アフリカの人も含め、そうなのではないでしょうか。しかし、そのままではアフリカが本当の意味で変わることはないでしょう。アフリカを変えたいと思う人間自身も、それに気づく必要があることを知りました。

私が今回ケニアに訪問したのは、国際保健を志すにあたり、アフリカの地を知ることで今後自分が国際保健にどう関わるかを考えようという気持ちからでしたが、今回の訪問で、その気持ちは改めて強くなりました。アフリカの広い空の下に立ち、電気も水道もない村の中で、日本とはあまりに違う健康状態に置かれている人々を救いたいという気持ちは強まり、また、自分の先入観に気づかされたことで、今度は私と同じように思う人々の意識を変える立場に立ちたいと思いました。まだ未熟な学生ではありますが、今後とも勉強を続け、現場に立つ準備を行ない、いつか自分が、世界で、アフリカで待つ人々のいのちを救いたいと思います。

宮崎医科大学(現在は宮崎大学医学部、旧大学ホームページから)

次回は最後の発表天満雄一:「ザンビア体験記:実際に行って分かること」をご報告する予定です。(宮崎大学医学部教員)

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石田記者

毎日新聞の報告記事

執筆年

  2012年6月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 46」

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