つれづれに

家庭教師3

とまとの柵(工事中?!)

 夜半過ぎから雨になり、今も雨が降っている。夕方過ぎまで続きそうである。雨を嫌うとまとの柵を作るのに思いのほか苦心している。竹を編んで拵えればいいのだが、腐らず長持ちするように工夫しようと考えたのがそもそもの始まりである。小さな温室のようなものを作ろうと考えて量販店で探している時に、屋根の部分の円形の支えと側面の支えを組み合わせる鉄製の部品を見つけて、これにしようと2回に分けて持ち帰った。結構長いので、自転車で運ぶのも大変である。さっそく組み立て、屋根になる部分の骨組みを他の支え棒で固定したが、これがどうもうまく行かない。土の部分が平行でないから捻じれるのかとも思いながら色々やってみたが、屋根の部分に固定した細い支えの棒がねじ曲がってしまった。ねじれ方が尋常でないので、初めて気が付いた。支え棒の長さが違うのではないか。調べてみたら、最初に買って来た4本と2回目の4本の長さが10センチほど違っていた。道理でうまくいかないわけだ。あした雨の降る前に買って来るか、そう思っていたら、夜半から雨が降り出した。あしたは白浜だから自転車に乗ると運動し過ぎてしまうし、仕方がない、土曜日か。雨に当たらないように、植えたとまとの苗にバケツを4つ被せとくか。思い付きの応急処置、やれやれである。

左側の買って来た苗と種からの苗

 100点の中学生、頭のいい二人の中学生、茶と琴を習いに行った先の高校生、それにコーチまがいの毎日、文字通り大学に行っている暇もないくらい忙しくて、2年留年をした。しばらく後でまた二人、今度はそれぞれ高校生の母親から頼まれた。慣れとは恐ろしいもので、「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが」(→「家庭教師1」、4月10日)と後ろめたい気持ちを持っていたわりには、さも受験勉強でもしたかのような不遜な振る舞いだった。
一人は私立高校の一年生で、すでに高校生になっていた「頭のいい二人の中学生」のうちの一人がテニス部の「先輩」だと言っていたから話を聞いたのかも知れない。子供の前で母親が少しおどおどしていた。子供は母親を少し鬱陶しく思っているようで、何となく不合格が尾を引いている感じだった。私といっしょに同じ高校を受けて不合格となり私立高校に行くことになった時に同級生が見せた物悲し気な表情が思い浮かんだ。通り道だったので毎朝迎えに来てくれていた同級生が行ったのも同じ私立高校だった。その時期(多感な時期、田舎でもあり今ほど進学する人が多くなかった時期)に地元の進学校に行けなくて、諦めて私立高校に通う本当の気持ちは、当事者でないときっとわからないだろう。後に大学院のゼミでいっしょになった人も同じ私立高校だったが、そんな感じは微塵もなかった。高校時代は野球でも有名だったチームでエースだったらしく、現役で同志社に行き、教員再養成向けの大学院に現役入学。担当教授の感化を受けてイギリス文学、それもキーツに関心を持ち、いたく教授に気に入られて楽しそうで、「物悲し気な表情」とは無縁のようだった。県立高校が二つしかなく、三番手は隣の市の県立高校を選んでいた田舎町とは違って、神戸に近い明石市の中学校だったので進学先の選択肢の幅が格段に広かったという進学事情が背後にあったかも知れない。

2列目左端がキーツくん、黒髭だが周りは教官並みに老けた「大学生」だった

 2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか。親子関係はうまく行ってるんやろか。私が教員になって中途半端のまま終わってしまったが、高校受験の傷が大学入試で少しでも恢復していればと願うばかりである。

河川敷近くに家があった(→「作州」、3月14日)

 もう一人はコーチまがいのことをしていた2年目のチームのキャプテンだった男子生徒の姉で、地元のもう一つの県立高校の2年生だった。弟は背は高くなかったが負けん気が強く、スポーツ向きだった。当然のような顔をしてキャプテンをしていたが、あまり勉強向きではなかったらしく、隣の市の三番手の高校に行っていた。語学にも向いてなさそうだったが、なぜか私立の外国語大学に行ったと聞く。私とコンビを組んでいた背の高いチームメイトも勉強は苦手だったらしく、その弟と同じ高校だった。市を跨いで通えるようにしていたのは単なる制度上の問題である。どういう政治的な経緯があったかは知らないが、こちらから行けるのだから、当然、成績のいい人が向こうからも入学して来る。数は多くなかったが、隣の市から通っていたクラスメイトもいたと思う。社会活動で仲の良かった一つ年上の人は成績がよくて地元に残った口である。高校の時は社会活動で忙しく浪人をしてしまったが、一浪して神戸の法に行って判事となり、最後は大阪高裁の判事だったらしい。高裁の判事になる時に「東大、京大以外で、と驚かれたで」と得意そうに言っていた。世評とは無関係に、優秀な人もいたわけである。
本人は弟とは違って体が元々強くなかったようで、控え目でおとなしい性格だった。大きな紡績会社で働いている父親も含めて家族四人で職員用の社宅(↓)に住んでいた。私立高校に通っていた生徒と同じように、2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか、そんな思いが残っている。卒業してから何年か後に、たぶん高校の教員をしている頃に家まで訪ねて来てくれたことがある。少し先に結婚することになったと話をしてくれていたが、少しも嬉しそうではなかった。私が何かを言うのを待っていると感じたが、敢えて何も言わなかった。生きてせいぜい30くらいだろうという思いが先に立ったからだと思う。それが二人が会った最後である。

紡績会社の社宅(→「引っ越しのあと」4月1日)

次は、家庭教師4、か。

つれづれに

花菖蒲(はなしょうぶ)

散歩の途中に通る道路脇の花壇に花菖蒲(↑)が咲いている。枯れかけているのもあるが、まだ蕾のものもある。何年か前から花壇の端の躑躅が枯れた場所にだ誰かが花菖蒲を植えたらしい。飛んで来た種から咲いたポピー(↓)も咲いてはいるが、盛りを過ぎたようである。上の公園の花壇にも植わっていて、最近ずいぶんと数が増えて来た。→「ポピー」(小島けい絵のブログ)

「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」3月

 花菖蒲は宮崎で妻が最初に描いた花である。借りた家が宮崎神宮より北側で市民の森の菖蒲園に近かったのが大きな要因だろう。三月末に引っ越して来て、少し落ち着いた頃に、北側の自転車で半時間以内に市民の森があって、そこに花菖蒲がたくさん咲いていると聞いた。それで妻が通い始めたわけである。三十代の後半で若かったし、十四年間の仕事を辞めた解放感もあったようである。手のかかった子供二人も幼稚園と小学校に通い始めていたし、生き生きとして自転車で市民の森に通い始めた。

宮崎市民の森花菖蒲園

 毎日描いていたので相当絵もたまっていたので、本の装画の話が来た時、何枚かを出版社に送って表紙絵や扉絵になっている。原画を一括して送ってもらったことがあって、最近スキャナで取り込んだ。原画が3枚である。ぎっしり描いて、勢いもある。描いているときは、先行きのことは考えずに、描けなかった時間を取り戻すように、楽しそうに描いていた。→「花菖蒲」(小島けい絵のブログ)

花菖蒲

山田はる子『心の花を咲かせたい』(1989/1/25)

裏表紙

扉絵

「たまだけいこ:本(装画・挿画)一覧」 もどうぞ。

 季節も移り変わり、畑も冬野菜は終わりかけで、夏野菜に移行している。一昨年から作り始めた瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵と、今年は新たにとまとの柵を拵えている。茎や実の重さに耐えるように台風時の強風に負けないしっかりとしたものでないと、ごそっと倒れてしまう。過去の教訓である。台風の通り道であることを忘れてはいけない。とまとは雨を嫌うので、雨が当たらないようにビニールシートを被せる必要もある。毎日家にいるからか、まだレタスが虫にやられずに済んでいる。

北側の玄関先に植えている柿もたくさん実をつけて若葉が瑞々しい。一昨年は250個以上も生ったのに、去年はたったの7個、一つが干している間に落ちてしまったので、結局干し柿になったのは6個だけだった。今年は生り年のようである。→「昨日やっと柿を干しました」(2017/10/30)

何本もの枝にたくさんの実が生って、200個は越えそうである

つれづれに

つれづれに:髭と下駄

妻に描いてもらって自己紹介に貼っていた似顔絵

髭が生えだした。時期ははっきりしないが、大学の2年目くらいからだったような気もする。髭を伸ばすという意識はなかったが、剃るのも面倒臭くてそのままにしていたら、ずいぶんと目立つようになった。そのうち、髭を剃る音が、俗世間の象徴のような気がして、僕は世の中と違うねんから、という変な理屈をつけて、意地になって伸ばし始めた。

その頃、よく警官に職務質問を受けた。そんな……と思ったが、学生運動の過激な人たちの姿形とよく似ていたらしい。1970年の反安保闘争で、機動隊にこてんぱんにやっつけられ、指名手配を受けて地下に潜った人たち、である。仇(かたき)のように、警官に呼び止められて、職務質問をされた。夜の授業が終わって電車で帰ってくると、夜中の十一時過ぎになり、橋を渡る前に信号待ちをすることが多かった。運悪く、信号の前に交番があり、毎回呼び止められた。いくら暇や言うても、毎回職務質問はないやろ、と思ったが、本当に毎回呼び止められて、交番の中まで連れて行かれて職務質問された。同じ人間だとわかっていながらやっていたと思う。あれは行き過ぎやろ、と今でも思うが、夢の中の出来事のような気もする。それ以来、頭の中まで筋肉の人がという偏見が頭をかすめて、警官を見ると反射的に身構える。すれ違ったパトカーが、わざわざ戻って来て職務質問されたこともある。明石に引っ越ししたあとも、自転車で二人乗りをして必死に坂を漕いでいるときでも、平気で呼び止められた。しかし、さすがに陸の孤島だけのことはある。学生運動の波が来た形跡もなく、宮崎では一度も呼び止められたことがない。今では、ごくろうさまです、と挨拶をする余裕すら芽生えている。外国みたい、そんな感じさえする。あの職務質問は、一体何だったんだろう。→「夜間課程」(3月28日)

橋を渡った左手辺りに交番があった

下駄は古典と立原正秋、それと家庭教師で少しゆとりが出来た悪影響である。源氏や落窪や宇津保は、琴や着物の世界である。立原正秋の『鎌倉夫人』などもその世界である。すぐに感情移入をしてしまうらしい。ある日、家にあった着物を着て、お茶を習い始めた。そこでは琴も教えているようだったので、ついでに琴も習うことになった。茶を立てているとき、娘の家庭教師をお願い出来ませんかと言われた。嫌とは言えずに黙っていたら、では出ず入らずで、と言われた。いまだに、その時の稽古料がいくらだったのか、知る由もない。→「作州」(2022年3月14日)

着物を着ると、当然下駄に褌(ふんどし)である。それから、普段も下駄を履くようになった。桐下駄である。素足には心地よい。ただ、すぐに汚れがつくので、一日に何回も雑巾できれいに拭いた。アスファルトの上は、滑るので歩きにくかった。その点、木造校舎はいい。廊下が木のままだったら滑って歩き難かったと思うが、滑り止めシートが貼ってあった。今ならゴムか塩化ビニール樹脂だったかも知れないが、その時はドンゴロス(麻袋を作る目の粗い厚手の布)の材料と同じ麻製のシートが敷いてあったように思う。授業中なら、これ見よがしに大きな音を立てながら歩いた覚えがある。一度だけ、学年が上の女性だったと思うが、和服を着て廊下を歩いていた。学生が和服を着ているのを見たのは、後にも先にもその時だけである。今のキャンパスでそんな雅びた光景に出くわすことはない。なぜか、強く印象に残っている。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

次回は、家庭教師3、か。

つれづれに

つれづれに:古本屋

「2年目の女子のチームに毎日練習日記をつけるように薦めてノート代に500円を渡したが、その日のお昼に使うかノートに使うかと迷った」(→「コーチ」、4月15日) と書いたが、お金はないよりあった方がいい。3人の家庭教師をするようになってから少し余裕が出て、行き帰りに神戸近辺の古本屋に行くようになった。

阪急に乗り換える時に利用した国鉄三宮駅(今はJR)

大学までは2時間足らずかかるので、授業だけの日は4時台の電車に乗った。宮崎の単線にすっかり馴染んでいるが、複線の山陽本線も昼間は1時間に1本しかなかったので他に選択肢はなかった。駅まで自転車で10分ほど、1時間ほど快速電車に乗り、三宮で乗り換え、阪急電車で3駅目の阪急六甲で降りて、20分ほど歩いた。三宮からの月額定期が580円、阪急3駅分が1000円前後だったから、今から思えば超格安だった。→「夜間課程」(3月28日)

大学に一番近かった阪急六甲駅

行き帰りに行った古本屋は、神戸と三宮間の高架下と、神戸から三宮センター街までの間にあった。10軒くらいはあった気がする。インターネットもスマートフォンもない時代、それなりに活気もあった。英語もしないのに、なぜか高架下で中古の手動英文タイプライターを1万5000円で買い、asdfとブラインドタッチの練習をやりかけたこともある。大学院では電動タイプライターで修士論文を書いた。締め切りに追われて遅くまで打っていた電動タイプの音が、2時間おきにミルクをやっていた息子には子守歌だったかも知れない。オレ、そんなん知らんでえ、と言われそうだが。

神戸元町の高架下

少し余裕が出始めてから、だんだんと本の数も増えていった。最初は漱石や芥川、太宰や谷崎を、そのあと古典の源氏や落窪、宇津保、萩原朔太郎の詩にまで手を出してみたが、どうもしっくりこなかった。その頃、家で取っていた讀賣新聞の夕刊で立原正秋の『冬の旅』を読んだ。なぜか、すっと心に沁み込んで来た。古本屋に行くと、たくさん出回っていて、目についた本は手当たり次第に買って、読んだ。多作で、出版社の要請に応えた駄作も結構ある。しかし、小説を書くという自分の中にあった思いに気づき始め、その思いが強くなっていったのは確かである。→「作州」(3月14日)

次回は、髭と桐下駄、か。