続モンド通信・モンド通信

続モンド通信21(2020/8/20)

 

私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記14回目:後書き(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「 アフリカ系アメリカの歴史」(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「寅次郎くんとコスモス」(小島けい)

モデルは、大分県在住の<寅次郎くん>です。

寅次郎くん

個展を始めて今年で13年目になりますが、最初の五年間は、大分県の飯田高原にある<九州芸術の杜>でお世話になりました。

九州芸術の杜正面

そこで個展をしていた時。一人の落ち着いた雰囲気の女性が、作品を見終わった後話しかけてこられました。豊後大野市で<夢色工房>というお店をしている方でした。<私のお店で、絵とカードを販売しませんか?>というお誘いを受けました。

しばらく後、ありがたく作品を置かせていただいたのですが。そのお店に来る若い女の人で、えらく私の作品を気に入って下さった方がおられるとか。そして、彼女はもっと私の作品を広めようと、自主的にあちこち動物病院にあたったりして下さっているというのです。そのお話を聞いてからずっと、何という<ありがたい方>!と感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後何年も年月が流れ、彼女は縁あって大分県から四国の方に嫁いでいかれました。

寂しくなった彼女の実家には、新しい犬ちゃんがやってきました。それがこの愛らしいダックスフンドの寅次郎くんです。ちなみに、命名はお父様だそうですよ。

2020年10月カレンダー

=============

2 小島けいのジンバブエ日記14回目:「後書き」(小島けい)

 何故か、旅の六年後に書いた文章が残っています。その時からっもずいぶん月日は流れましたが、感じる思いは今も変わりませんので<小島けいのジンバブエ日記>の後書きに代えたいと思います。

旅kら六年を経た今、改めてふり返ると、「私のアフリカ」はほとんどゲイリー一家との交流に限られています。そして出逢ったことを忘れてしまわないで、引き受け続けることの難しさを、感じるこの頃でもあります。

白人と黒人が対立している国を訪れ、初めて、そのどちらにも属さない立場を意識しました。それはとても中途半端ですが、その曖昧さ故に、どちらにも関わり得るということが強みでもあります。

これからもし何か出来るとすれば、それはいずれかに擦り寄ることではなく、「黄色」の立場からではないか、と感じたのですが、その実行は、生半可にはいかないようです。

 

 アフリカ不思議なところです。何もなくてあたりまえですが、何が起こってもおかしくありません。体力的にそれほど強くない私たち家族が、病気もせず帰ることができた。本当は、それだけで、十分だったのかもしれません。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜18:「アフリカ系アメリカの歴史」

アフリカの歴史の次は、アフリカ系アメリカの歴史の拠り所についてです。リチャード・ライトの小説を興奮して読みながら、小説を理解するためにはアフリカ系アフリカ人が辿った歴史を辿るなかでその必要性を感じました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)

リチャード・ライト(小島けい画)

もちろん、アフリカ系アメリカの小説を理解するために始めたわけですから、本格的な歴史書、ハーバード大学でアフリカ系アメリカ人として初めて博士号を取ったCarter G. WoodsonのThe Negro in Our History (1922)ゼミの担当者貫名さんが十年かけて翻訳されたWilliam Z. FosterのThe Negro in An American History (1954)(『黒人の歴史―アメリカ史のなかのニグロ人民』、大月書店、1970年)シカゴ大学の歴史学者John Hope FranklinのFrom Slavery to FreedomA History of Negro Americans (1980)などを先ず読むべきだったのでしょうが、私が拠り所にしたのは、①ラングストン・ヒューズの“The Glory of Negro History”、 ②ライトの12 Million Black Voices、③マルコム・リトゥルのMalcolm X on Afro-American History④アレックス・ヘイリーのRootsと⑤それを基に作られたテレビ映画「ルーツ」、それと⑥本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』でした。

  • “The Glory of Negro History”

“The Glory of Negro History” (1964年)はラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)が物語った詩人の歴史です。アメリカにアフリカ人が連れて来られるようになった頃から公民権運動が始まる頃くらいまでの詩人から見た民衆の物語です。詩人らしく、自らが朗読してレコード(LP)も出しています。当時生存中の著名人にも演奏や朗読を依頼して花を添えている貴重な歴史資料でもあります。

文化として黒人が受け継いできたスピリチュアルズ、ブルース、ジャズなどを盛り込み、そのレコードをウッドスン博士に献じました。

ヒューズとも親交のあった古川博巳さんが註をつけて、南雲堂から出されていた大学用のテキストを5年ほど、映像などといっしょに教養の英語の時間に使い、ヒューズの朗読も教室でくり返して聴きました。民衆に寄り添った詩人の肉声は、後の世の人への素敵な贈り物だと実感しながら聴いていました。マルコム・リトゥルなどが痛烈に批判したNegroが表題に使われてはいますが、死ぬまでハーレムを去らなかった詩人らしく、民衆の中に根ざしたアフリカから連れて来られた人たちの子孫の「栄光」の歴史です。

  • 12 Million Black Voices

詩人の“The Glory of Negro History”と併せて、小説家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)の12 Million Black Voices(『1200万の黒人の声』、1941)も拠り所となりました。『アメリカの息子』(Native Son, 1940)と自伝的スケッチ『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)の谷間にあって知名度は高くないのですが、なかなかの力作です。

少数の支配者層に搾取され、虐げられ続けてきた南部の小作農民と北部の都市労働者に焦点を絞り、エドウィン・ロスカム編の写真をふんだんに織り込んだ「ひとつの黒人民衆史」です。

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」(「黒人研究」第56号50-54頁、1986年)

  • Malcolm X on Afro-American History

Malcolm X on Afro-American History は、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館に行った帰りに立ち寄ったアフリカ系アメリカとアフリカの専門店リベレーションブックストアで見つけたもので、前回紹介したThe Struggle for Africaと共に貴重な拠り所になりました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」続モンド通信3、2019年2月20日)

公民権運動の指導者マルコムが4回シリーズで語ったアフリカ、アフリカ系アメリカの歴史で、4回目の途中に暗殺されましたので、未完のままです。白人支配の体制に闘いを挑む前に、先ず自己意識の変革の必要性を説き、アメリカ黒人の歴史についての話をしています。奴隷船でアフリカから連れて来られる以前に、アフリカにいかに豊かな文化があったか、いかに自分たちの祖先が優れた人々であったか、又、いかに巧妙な手段を使って白人たちが黒人に白人優位の考え方を植えつけてきたか、そして今、自分たちが何をしなければならないのかなどを語りました。「黒人歴史週間」やアメリカ黒人の呼び方「ニグロ」の欺瞞性も次のように厳しく批判してします。

なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。[『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』 Malcolm X on Afro-American History (New York: Pathfinder, 1967), p. 15]

小島けい画

後に、自己意識の大切を説いた南アフリカのスティーブン・ビコなど、多くの人にも影響を与えた貴重な人物の一人だと思います。

 

Rootsと⑤テレビ映画「ルーツ」

『ルーツ』(Roots, 1976)はアレックス・ヘイリー(Alex Haley, 1921~1992)が自分の祖先を七世代遡って小説にまとめたもので、翌年にはテレビ化され、各国で翻訳もされて世界的に反響を呼びました。

30周年記念DVD版の表紙

17歳だった1767年に奴隷狩りに遭い、アメリカ大陸に連れて来られた祖先クンタ・キンテの名前を、村の歴史を継承する語り部グリオ(griot)の口から聞くために、西アフリカガンビアの小さなジュフレ村を訪れています。

私はテレビ放送があった頃は見ていませんが、1980年代半ば頃に非常勤講師としてお世話になった大阪工業大学のLL(Language Laboratory)教室でダビングしてもらいました。孫テープの画質はよくないですが、今となっては貴重な資料です。2007年に30周年記念版のDVDは映像も鮮明ですが、一部(クンタ・キンテの誕生から、奴隷解放がテネシー州に落ち着くまで)だけで、それ以降の2部は含まれていません。どちらも、今は映像ファイルに化けて、英語の授業で大活躍です。

Roots, 1976

安岡章太郎訳日本語版上

安岡章太郎訳日本語版下

 

『アメリカ黒人の歴史』

本田創造さんの『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1964年)も拠り所の一つになりました。黒人研究の会の例会で一度だけ本田さんのお話を伺ったことがあります。大学で私のゼミの担当者だった貫名義隆さんが誘われたようで、当時は一橋大学の教授だったと思います。

黒人研究の会は貫名さんが1954年に神戸市外国語大学の同僚を中心に、中学や高校の教員や大学院生とともに始めた「黒人の生活と歴史及びそれらに関連する諸問題の研究と、その成果の発表を目的とする」(会報「黒人研究」第1巻第1号1956年10月)小さな研究会です。例会での『アメリカ黒人の歴史』の評判は上々でした。同じ頃出版された猿谷要さんの『アメリカ黒人解放史』(サイマル出版会、1968年)も研究会で話題にのぼりました。当時東京女子大教授で、NHKにも出演して有名だったようですが、本田さんの本とは対照的に、研究会での評判は散々だったと記憶しています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

1619年8月に植民地労働力としてアメリカ最初のアフリカ黒人が、1620年11月にイギリス軍艦をともなったオランダ船が、どちらもヴァージニアのジェームズタウンに来たことを指摘して書いた「アメリカ最初の代議制議会の誕生という民主主義的なもののはじまりと、アメリカ最初の黒人奴隷の輸入、すなわち生身の人間を動産とする黒人奴隷制度という非民主主義的なもののはじまりとが、同じ時に、同じ場所で、同じ人間によってなされたことのアメリカ史の皮肉である」という書き出しは印象的でした。

その後、奴隷制を基に発展していくアメリカを、南部戦争→再建期→反動→公民権運動を丁寧に辿り、わかり易く書かれています。1991年に改訂新版(新赤版)が出て、今も岩波新書「アメリカ黒人の歴史」は読み継がれているようです。

アメリカの歴史に関しては、英文書Africa and its Descendantsの3章を軸に、4回に分けて書きました。↓

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」(2014年3月10日)

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」(2014年4月10日)

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」(2014年5月10日)

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」(2014年6月10日)

(宮崎大学教員)

 

2010年~の執筆物

続モンド通信20(2020/67/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜17:「アフリカの歴史」(玉田吉行)

 リチャード・ライトの『ブラック・パワー』をきっかけに本格的にアフリカに首を突っ込むようになったものの、アフリカの歴史について何を拠り所にするかは大きな問題でした。

リチャード・ライト(小島けい画)

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、「黒人研究」第55号26-32頁、1985年。

“Richard Wright and Black Power”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48. 1986年。

大学職に就くためには業績も必要で研究らしきものも始めましたが、小説を書く空間さえ確保出来れば充分で、元より研究の目標も展望もあるはずもありませんでした。しかし、その都度やれることをやっていたら次が見え始め、また次が見え、気がついてみたら、アフリカの歴史の拠り所を探り始めていました。探り始めて手がかりらしきものが見え始めたのも、黒人研究の会、リベレーションブックストア、「アフリカシリーズ」の影響が大きかったと思います。

黒人研究の会

黒人研究の会は第二次世界大戦後のアジアやアフリカの独立運動や、アメリカの公民権運動の頃から活動を始めていた小さな研究会です。アフリカ系アメリカとアフリカが研究の対象で、神戸市外国語大学の教員が活動の中心でした。

神戸市外国語大学の夜間課程を卒業後、高校教員6年目に入学した大学院で修士論文を書き始めた頃に入会し、月例会にも参加し始めました。会員は文学や語学が専門の人が中心でしたが、歴史や政治の専門家もいましたので、アフリカ系アメリカやアフリカの広範囲な話が聞けました。発表の場が欲しくて参加しましたが、自然にアフリカの文学や政治や歴史にも触れるようになりました。アフリカ人の会員もいて、アフリカ人の立場からの意見も聞けましたし、自然にアフリカも視野に入れて考えるようになったのは大きかったと思います。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

月例会が行なわれた神戸市外国語大学旧校舎事務局、研究棟(大学ホームページより)

リベレーションブックストア

リベレーションブックストアはニューヨーク市ハーレムにあるアフリカ系アメリカとアフリカの専門店で、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館を訪れた帰りにたまたま立ち寄りました。そこでThe Struggle for Africa (Zed Press, 1983)を見つけました。図書館にはアフリカ系アメリカとアフリカの貴重な資料が揃ったションバーグコレクションがあり、その中に修士論文の軸に据えたライトの中編小説が掲載された雑誌のフォトコピーがあると知って出かけました。実際には、図書館に行く前に、ニューヨーク市の古本屋で雑誌の現物を見つけたので、コピーを手に入れる必要はなくなってしまいましたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)

前書きによれば、The Struggle for Africaはアフリカを見直そうという目的で、南部アフリカとの連帯を掲げて活動していたスウェーデンのアフリカグループ(The African Groups of Sweden)が書いたアフリカ史で、1982年にスウェーデン語で出版された本の英語版です。

そのグループは、長年南部アフリカ諸国と連携して解放のために活動を続けていましたが、参考図書として使っていた選集The Liberation Struggle in Africa (Befrielsekampen i Afrika)に飽き足らずに、その選集に代わるものとしてThe Struggle for Africaを書きました。解放運動を支援する政府や州の先進的な方向性は認められるものの、それでもアフリカ全般、特に解放運動に関しては、学校図書もマスメディアも表面的で、スウェーデンの大衆に届く情報の数々に西洋の偏見(バイアス)がはっきりと見て取れたからです。

本が生まれた経緯を編者Mai Palmbergが前書きで次のように書いています。

「歴史背景と紛争の現実の問題をよく知った上で連携作業を進めるべきだと考えていましたので、アフリカの闘争で実際何が問題なのかを説明するために私たちは書籍を作りました。そして、アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したいと思っている人たちの間でも、私たちのグループ以外でも、この種の背景や分析を強く望む声があるというのがわかりました。

解放闘争に携わっている人たち自身の間でも、こういった事実や分析の必要性が非常に高いとわかって、書籍を作るという発想が生まれました。もちろん、南部アフリカの解放闘争の背景をもっとよく知りたい人すべてに役に立てばと思いますが、同時に、書籍が読まれる所で連帯関係が強まればと願っています。」

 The Struggle for Africa は9章からなり、最初の3章がアフリカ史全般、4~9章が南部諸国の解放運動についてです。

1章はアフリカの植民地化、2章は独立運動と植民地時代の終焉、3章が第二次世界大戦後の新しい形の支配体制(「新植民地支配」)。

4章は、ギニア・ビサウとカーボベルデ、5章はモザンビーク、6章はアンゴラ、7章はジンバブエ、8章はナミビア、9章は南アフリカの解放運動についてです。

ションバーグコレクションからの帰りに立ち寄ったリベレーションブックストアで、「アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したい」と考えていた日本人がたまたまこの書籍を発見し、その本を軸にアフリカ史の入門書として2冊の英文書 Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998)を書いて、その後大学のテキストとして使うことになったというわけです。

「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送された8回シリーズ(各45分)の番組です。英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。

30年以上も前のものですが、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介し、後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていています。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだと思います。

バズル・デヴィドスン

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」です。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語です。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半です。

西欧が自らの理不尽な侵略を正当化するために捏造した白人優位・黒人蔑視の意識、現在の資本主義社会の方向性を決めた奴隷貿易、解決策としての「先進国の経済的譲歩」を軸にして、バズル・デヴィドスンはシリーズ全体を展開しています。

白人優位・黒人蔑視―デヴィドスンは番組の冒頭で、ジンバブエの遺跡グレートジンバブエなどを紹介しながら、500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を如何に浸透させて来たかについて、次のように語っています。

アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病なのです」と断言しています。

18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

奴隷貿易―そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べています。

では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

経済的譲歩―そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいます。

援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。「最終回 植民地支配の残したもの」

今回の科学研究費の「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」もこうした背景から生まれました。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜13:「ゴンドワナ (3~11号)」

 大学のゼミの担当者だった貫名さんが亡くなられて暫くしてから、大阪工大でもお世話になっていた小林さんから追悼文を書かないかと誘われました。横浜の門土社が発行中の雑誌に追悼集を組むからということでした。それが門土社との出会いです。

夜間課程はゼミが一年だけでしたが貫名さんのゼミを取りましたし、研究室に行ったり、卒業してから貫名さんが創られた黒人研究の会で研究発表もしていましたが、実際には定年間際の貫名さんとは何回かお話ししたくらいでした。英書購読の授業やゼミでのことを思い出しながら、何とか書いたのが、最初の依頼原稿となりました。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。)

「ゴンドワナ」3号

その前か後か、出版社の人と会うことになり、横浜で社長さんと編集者の方と三人で話をしました。それから暫くして、宮崎での話が決まり、医学科での授業も始まりました。元々小説を書くための空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取りに行きましたから、僕としては書くための空間さえあれば充分でした。いつの頃からか、立原正秋という人の小説が僕の中では生涯のモデルとなり、同じように職業作家になって直木賞をと漠然と考えていましたが、社長さんから直木賞も本を売るための出版社の便法で意味がないと窘められました。大学の教員には授業などの教育以外に研究や社会貢献も求められますので、専任になっても当座は小説を封印、大学の流れにまかせようと何となく心に決めました。

出版社は演劇、アフリカ関係の本や大学のテキストが中心で、独自の雑誌「ゴンドワナ」も創り始め、黒人研究の会の人も投稿しているようでした。気に入って下さって、ちょうどラ・グーマをやり始めた頃から書きませんかと誘って下さるようになりました。当初から計画があったわけではありませんが、その後、誘われるままに本も7冊、雑誌にもせっせと原稿を書き、翻訳も三冊やりました。「ゴンドワナ」は19号まで出ましたが、今回は3号から11号までに載った原稿についてです。

雑誌「ゴンドワナ」創刊号の表紙に1984年9月とありますから、最初にお会いした少し前に創刊されたようです。後に一部送ってもらった創刊号はA5版(A4の半分)32ページの小冊子で、定価が600円。ハイネマンナイロビ支局のヘンリ・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿も含め、アフリカや演劇関係の記事が大半です。アフリカ関係の民間の雑誌は、アフリカ本の出版がかなり多かった理論社のα(アルファ)という雑誌でも7号で廃刊、それだけアフリカものの出版は経済的に厳しかったわけです。その意味では19号まで出たのは、時期を考えても驚異的です。元々アフリカや演劇関係の読者層は圧倒的に少なく、採算が取れるとは考えられないからです。当然、原稿料はありません。

「ゴンドワナ」創刊号

3号(1986年)の貫名さんの追悼号の次に原稿を送ったのは7号(1987年)の分で、コートジボワールの学者リチャード・サマンさんが1976年にタンザニアで行なったラ・グーマへのインタビューの日本語訳と、それに関連する当時のアフリカ事情について書いた評論です。ミシシッピの会議でお会いしたソルボンヌ大のファーブルさんがラ・グーマを始めた頃に大学発行のAfram Newsletterという英語の雑誌を送ってくれるようになって、その中にサマンさんの記事を見つけました。ファーブルさんに翻訳をしてもいいですかと手紙を書いたら、本人に直接聞くように住所を教えてくれました。アフリカにはフランスに植民地化された国も多く、フランスの同化政策の影響もあって、パリが文化の拠点で、たくさんのアフリカ人がパリに留学したりしています。サマンさんのその一人のようでした。ジンバブエの帰りにパリに寄って家族でファーブルさんを訪ねた時に宿の世話をしてくれた女性もモロッコからのファーブルさんの学生さんで、子供たちはその人のことをモロッコさんと呼んでいました。日本に比べてアフリカとは地理的にも近く、特に北アフリカや西アフリカとは色んな意味で関係が深いようです。マリのサリフ・ケイタやセネガルのユッスー・ンドゥールなどの歌手も、パリを拠点にして世界的に有名になっています。→「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」(19-24頁。)と→「アフリカ・アメリカ・日本」(24-25頁。)

「ゴンドワナ」7号

次は8号(1987年)で、ラ・グーマが闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿りました。最初に大きな影響を受けた父親ジェームズさんと少年時代について。それからANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に参加し、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わりながら、作家としても活動したことなど。最後に、ブランシさんと結婚し、反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(22-26頁。)

「ゴンドワナ」8号

次は9号(1987年)。1956年の反逆裁判から1966年のロンドン亡命まで。ANC、共産党員として解放運動の指導的な立場にいたラ・グーマは、「南アフリカで起きていることを世界に知らせたい」「後の若い世代に歴史の記録を残したい」という思いから作家活動も続けました。最後に、亡命の道を選択したラ・グーマの生き方について書いています。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(28-34頁。)

「ゴンドワナ」9号

次は10号(1987年)。ラ・グーマを知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文と、作品・作家論の3作目です。紀行文では、見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめました。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(10-23頁。)

作品・作家論では、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(24-29頁。)

「ゴンドワナ」10号

次は11号(1988年)、アメリカ映画「遠い夜明け」(CRY FREEDOM)の映画評とケニアの作家グギさん関連の日本語訳とラ・グーマの作家・作品論の続編です。

映画評は1987年に上映された「遠い夜明け」で、主人公ドナルド・ウッズが亡命する姿を、ウッズより先に同じように亡命したラ・グーマとセスゥルに重ね合わせて書きました。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(22-28頁。)

日本語訳は、ムアンギさんが書いたグギさんについての作品論を日本語訳したものです。ムアンギさんとは、1982年か83年かに黒人研究の会で初めて会いました。黒人研究の会でのシンポジウムや大阪工大での非常勤も一緒でした。四国学院大学の専任になったあと、宮崎医科大学でいっしょにシンポジウムもやりました。→「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」(34-38頁。)

ラ・グーマの作家・作品論は、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)についての前半です。夜のイメージをうまく使い、アパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出している点を高く評価しました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(39-47頁。)

「ゴンドワナ」11号

専任が決まらない時期でしたが、たくさん書きました。宮崎医科大学に決まった翌年に「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で初めて申請して科学研究費[一般研究(C)1989年4月~1990年3月(1000千円)]が交付されたのも、出版物が多かったからだと思います。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信15(2020/2/20)

 

私の絵画館:「ニモ No. 1」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記8回目:ルカリロ小学校 (小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「ニモ No. 1」(小島けい)

この絵は、知人の家に保護された<ニモ>が子猫の時に描いた3枚のうちの1枚です。とても気に入っているのですが、今までのカレンダーの中には入れていません。なぜなら縦長ではないからです、

毎年作っている<私の散歩道「犬・猫・ときどき馬」>は、小さな縦型のカレンダーですので、絵はどうしても縦描きになってしまいます。

昨年の個展で、毎年見に来て下さる私より十歳年上の方が<この絵、いいね>とポツンと言われました。ご自身も絵を描かれるこの方は、一昨年も<こう言っては何だけど、昨年よりレベルが上がったね>と言って下さいました。

一年間ずっと一人で描き続ける私には、個展でのこんな一言が、むしょうに嬉しくて、励みになります。

この文章を書きながら、四角のこの絵ならいつかカレンダーの表紙になってもらうのもいいかなあ・・・・?と思いはじめたりしています。

=============

2 小島けいのジンバブエ日記8回目:「9月17日(快晴)ルカリロ小学校」(小島けい)

 <ジンバブエ>は南半球に位置します。そのため8月が学校の冬休みです。

ゲイリーの三人の子供たちは、休み中お母さんのフローレンスと一緒にハラレにやってきました。そして一夏(一冬?!)、私たちの子供(二人)と楽しく遊んですごし、九月の新学期に間にあうよう田舎に帰って行きました。

私たちは9月から学校にもどったウォルターとメリティに会うため、大きなバンを借り、ゲイリーの田舎の「ムレワ」を訪問しました。

土埃の舞うムレワのショッピングセンター(日本のように建て物があるわけではなく、赤茶色の土の広場の両側にいくつも店が広げられているという場所です。)からでこぼこの細い道をたどると、ゲイリーの家に着きます。さらにもっと奥の丘の上に、二人の通うルカリロ小学校がありました。若いジャカランダの木が二本、入口あたりにアーチのように植えられていて、その向こうに小さな建物がコの字型に建っています。

車が止まると、中から一斉に子供たちが、その後から先生たちが飛び出して来ました。そして、差し出される手、手、手。握手ぜめです。

ルカリロ小学校の子供たち

 資金不足のために床や壁や屋根のない校舎を見学した後、広場で盛大な歓迎会です、私たちは村を訪れた初めての外国人なので、村人たちも三三五五集まってきました。

村人たちも総出です

 アフリカ特有のダンスから始まり、クラス毎の合唱、英詩の暗唱と、会は延々と二時間以上続きました。最後は「イシェコンボレリアフリカ」の大合唱。それに対し、相方がお礼の言葉を述べて、会は終わりました。

音楽の先生と歌う女子生徒たち

けれどその後には、各クラス、さらには全体の記念撮影が待っていました。この国では、ショナ人たちが写真を撮る機会は、ほとんどありません。彼、<迷カメラマン>の大活躍です。ほぼ300人全員での記念撮影

 撮影会の後、ゲイリーの家にもどりました。幾つものインバ(小屋)で出来た彼の家から、遥か向こうの山裾までがゲイリーの土地です。つい百年前までは、この土地で自給自足の生活が可能だったそうです。

1980年に独立はしたのですが、白人優位の経済機構は変わらず、ほとんどのショナ人は以前と同様に、街へ出稼ぎに行かなければ暮らしていけなのが、現状です。

ゲイリーの家族といっしょに

丘を背景に、子供たちいっしょに

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)

MLAのためにサンフランシスコに行ったのは1987年の暮れのことです。二年前のシンポジウムでの別れ際に伯谷さんから「サンフランシスコは日本から一番近いから、家族といっしょにいらっしゃいよ。」と言われた当初、日本から一番近いと言われてもなあ、と思いましたが、結局、子供二人に奥さんといっしょに行きました。まだ定職も見つからない状態でしたが、フルで務めていた奥さんの「ビジネスクラスで行こ」という提案に逆らう理由もなく、5歳の長男には「13時間の飛行はきついやろな」と、一度ハワイに立ち寄ってから行くことにしました。(飛行機代金は4人で二百万ほどだったと思います。)

ワイキキの浜辺

兵庫県の明石に住んでいましたので伊丹空港から、結構寒い12月24日の夜中の便でした。目が覚めたら、早朝の真夏のハワイが広がっていました。クリスマスだけあって、赤い服を着たサンタクロースがワイキキの浜を歩いていました。厳しい陽射しで、サンタさんもきっと大変だったでしょう。

時差はなかったものの真冬から真夏の突然の激変に体もびっくりしたと思いますが、海の見えるホテルはなかなか快適でした。ワイキキの浜で遊んだり、浜辺の日本食の店屋で食事をしたり。それからサンフランシスコに。わりと穏やかな天気で、秋の半ばくらいの雰囲気でした。

 

海の見えるホテルで長女と

 海外での発表は初めてでした。ミシシッピの会議でファーブルさんとお会いし、英語をしゃべろうと思ったものの、すぐにとは行きません。英語に慣れるのも兼ねて、会議の翌年の夏にミシシッピを回りました。81年の最初のアメリカ行きで叶わなかったライトが生まれ育ったミシシッピです。サンフランシスコ→ニューヨーク→ニューオリンズ→ジャクソン→ナチェズ→グリーンウッド→メンフィス→シカゴ→サンフランシスコの行程で、ライト縁の土地に行きました。ただ、2週間ほどでしたので、言葉に少し慣れた頃に帰国、でしたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」続モンド通信4、2019年3月13日)→「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」続モンド通信5、2019年4月20日)

ミシシッピ州ナェズ空港

手元に、神戸の英会話学校「ベルリッツ」の領収書が残っています。すっかり忘れていましたが、高い授業料(領収書には30 courses, 221,000, 9/6/85とあります。ミシシッピの会議の前に通い始めていたようです。)を払ってでも英語に慣れたいという思いが強かったんでしょう。他に、大阪工大に提出した稟議書も残っていました。最初に詳しい説明もなく、週に二日の出講でしたし、その意識もありませんでしたが、嘱託講師も、表向きは専任教員だったようで、シンポジウムの申し込み書には、Lecturer, Osaka Institute of Technologyと書いていました。MLAのName PlateにもOsaka Institute of Technologyと書かれています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(大学ホームページから)

発表はラ・グーマの初期の作品A Walk in the NightとAnd a Threefod Cordの象徴性についてでした。やり始めて1年余りで、背景となる南アフリカの歴史やラ・グーマについても蓄積がない中での発表でしたので、「聞きに行くのも気の毒だから・・・・」とセスルが言ったような内容だったと思います。English Literature Other Than British and Americaという伯谷さんが司会の小さなセッションで、聞きに来た人も少なく、質疑応答もありませんでしたが、貴重で、稀有な機会となりました。後に発表内容を元に練り直して、日本の雑誌で活字にしました。→“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”(「言語表現研究」12号73~79頁、1996年。)

発表会場で、伯谷さんと

ミシシッピの会議に一緒に参加した木内さんも、ライトのセッションで発表していました。木内さんはその後毎年MLAに行って役員にもなり、トニー・モリソンやライトの翻訳書や、ライトのHAIKUについての伯谷さんとの共著書も出版しました。ライトのHAIKUについてはJapan Timesでコラム欄を担当、すでに退職していますが、あと一冊ライトのまとめを出すのが最後の仕事だ、と一昨年に会った時に話をしていました。

会場での木内さん

サンフランシスコは4回目でした。東海岸までの直行便はきついですので、サンフランシスコで何日か過ごしてからニューヨーク方面に行くことにしていました。家族と一緒は初めてで、地下鉄やケーブルカーにも乗り、タクシーでゴールデンゲートブリッジと漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)に行きました。どこも観光名所です。漁夫の波止場の39埠頭(Pier 39)辺りのレストラン街にいきましたが、クリスマスシーズンでどの店も一杯で、唯一空いている店に入ったら、飛びきり辛いメキシコ料理店でした。漁夫の波止場の場面が登城する旅番組を今でも英語の授業で使うことがあります。医学科の一年生は全部の科目が必修で、リスニングも選択肢の一つにした時期がありますが、その材料の一つとしてNHKの衛星放送で録画した旅番組も使いました。非常勤で行っていた宮崎公立大学でリスニングに特化した選択クラスを頼まれた時にも旅番組を使いました。サンフランシスコの映像はオーストラリアのテレビ局のもので旅情をかき立てるような20分ほどのもので、比較的聞き取りやすく、英語と日本語の違いなどを説明するのに適した材料でした。カリフォルニア大学アーバイン校で6年次に小児科と救急で臨床実習を受ける学生のための講座で、実習の直前に用語とリスニングのoral checkをした時にも使いました。さすが本場で実習を受けるために一年生から準備しただけあって、かなり早口の映画の場面などを使って英問英答でチェックしたのですが、大体の人が言っている内容を把握して適切に答えていました。大学に入って来たときは入試のために準備をしただけで英語がほとんど使えない人たちが、臨床実習という短期の目標を設定して本場アメリカの救急や小児科で支障なく英語をこなす学生と接して、出来るもんやなあと感心していました。小児科で実習を受けた学生の一人が、授業で見せてくれた場面ですよね、と後輩のための実習王国といっしょに漁夫の波止場の写真を送ってくれましたので、英語科のホームページに載せたことがあります。→「2015/06/20 June 20(石﨑友梨)」英語科ホームページ「songkla diary・Irvine diary – ソンクラ・アーバイン通信」)

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

 

タクシーの運転手さんといっしょに

漁夫の波止場

セスルとローズマリーさん、家族といっしょに

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」続モンド通信14、2020年1月20日)

なかなか専任の口は決まりませんでしたが、ライトから始まってガーナの独立とエンクルマ、そして南アフリカとラ・グーマへと、知らず知らずのうちに世界が広がっていたようです。(宮崎大学教員)