つれづれに:工大教授会(2022年8月8日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:工大教授会
「MLA」(↑)に向けて準備を始めた1986年の夏くらいだったと思うが、「今度人事があるで。採れるとええけどな。書類は嘱託のを使える出さんでええで」と先輩から言われた。一般教育の英語で専任を二人採用するらしい。工学部の英語科は工学系の専門課程を担当するわけではないので、余程のことがない限りこの人でないと困るという事態になることはない。つまり、流動が激しいのである。機会があれば、違う大学に異動する。夜間の同級生で先輩に無理して採ってもらった講師がいたが、線が細く、業績的に見ても先輩がいる間の異動はなさそうだった。旧帝大系から教授の世話で来た講師は、そのうちどこかに異動しそうな気配だった。先輩に紹介されたことがあるが、いかにも腰掛けでいるだけですという雰囲気を漂わせ、上から見られているようで嫌だった。どちらも英語学が専門らしかった。人事は頻繁にあるようで、先輩から大学で後ろ盾があるような話も聞かなかったので、人事では無理をしていたかも知れない。LLを導入して設備を備え、補助員3名の予算も確保していたから評価はされていたようだが、一般教育に多額の予算を計上するのに反対した人がいたかも知れない。民主主義の建前は過半数だから、人事も工大(↓)教授会次第というところか。
博士課程の受け入れはないと知った時も途方に暮れたが(→「大学院入試3」)、院修了後1年目の「大阪工大非常勤」、2年目と3年目の「二つの学院大学」でも非常勤、4年目の1986年に「嘱託講師」(7月25日)と教歴の方は順調だった。業績の方も「黒人研究」(→「黒人研究の会」、6月29日)、「言語表現研究」(→「言語表現学会」)、大阪工大の「紀要」、「横浜」の出版社の「ゴンドワナ」(↓)と着実に増えていた。
二つの人事(→「女子短大」、→「二つ目の大学」)はだめになったが、二つ目の大学は理事会側と交渉中である。相変わらず先行き不透明だったが、先輩の大学の人事の話を進めてもらえている。子供二人としっしょにいる時間も増えたし、家事をやらせてもらう時間もずいぶんと増えた。研究会の毎月の例会案内もあるし、「こむらど委員会」の行事にも参加、横浜で出版社の人と会ったあと暫くしてからは雑誌にも記事を書かせてもらうようになっていた。「ライトシンポジウム」に行ってからは、カナダのエイブラハムズさん(↓)宅訪問(→「エイブラハムさん1」、→「エイブラハムさん2」)、サンフランシスコの「MLA」と行動範囲もずいぶんと広がっていた。あとは専任のくちだけである。そんな感じで順調に流れていたが、MLAから戻ったあとの2月半ば頃に「あかんかったわ。いつもはもっと前の教授会で人事をするんやが、今回に限ってワシがアフリカに出張してる間の2月に教授会を入れられて。わざとやな。もう一人の嘱託の人とあと一人、学長の推す人や」と、悔しそうに先輩が呟いた。先輩でもだめか、人事がだめになるのは3度目である。これも「途方に暮れた」のうちか、とも一瞬は思ったが、何の不満もない。先輩には感謝である。
次は、広島から、か。