続モンド通信・モンド通信

続モンド通信31(2021/6/20)

アングロ・サクソン侵略の系譜27:日本語訳『まして束ねし縄なれば』

 ある日、出版社の社長さんから電話があり、アレックス・ラ・グーマのAnd a Threefold Cordの日本語訳を薦めて下さいました。宮崎医科大学で授業を始めて暫くした頃だったと思います。授業用の英文註釈書A Walk in the Night(1989年)とAnd a Threefold Cord (1991年)をすでに出してもらっていましたので、その流れだったと思いますが、その時は思いが及びませんでした。

And a Threefold Cordの表紙

学生として授業を受けている時は、テキストと翻訳にはかかわりたくないなと感じていましたが、気がついたらテキストを作り、日本語訳を出していた、そんな感じです。

しかし、出版事情はかなり厳しく、自分で出せば200~300万は必要だと言われました。僕は出たものを学生に買ってもらえばいいと言われましたが、実際は出すまでも出たあともなかなか大変でした。当時の授業は100分で通年30コマが基本でしたから、テキストは年に一度、医学科の場合、一学年100人ですから、そうたくさんは捌(さば)けません。しかし、非常勤でも何コマか行っていましたので、全部合わせるとそれなりの数が捌(さば)けたと思います。それに、仮説を立てての論証文という課題の参考図書にして、同じ出版社の他の人の本も買ってもらいました。書いた人は新聞記者や大学の教員が大半でしたが、自分で売る人はいませんでしたから。よく考えたら、元々構造的にもアフリカ関係のものが売れるはずはありません。大体、小中高でほとんどアフリカは扱いませんし、「アフリカ文学?」というのが実情です。英米文学にかかわる人は多くても、アフリカ文学の学部も大学院もありませんし、先進国は第3世界から搾り取りながら、アフリカを助けてやっていると勘違いしている人が大半なのですから。せいぜい、僕のように英語の分野で大学の教員になってからたまたまアフリカ文学をやり始めた、くらいしかないわけです。

ラ・グーマを読むようになった経緯については→「MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月)、テキストについては→「A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年4月)に、作品については→「『三根の縄』 南アフリカの人々①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁、1990年8月)と→「『三根の縄』 南アフリカの人々②」「ゴンドワナ」17号6-19頁、1990年9月)に書いていますので、ここでは①タイトル、②表紙絵、③日本語訳について少し触れておこうと思います。

① タイトル

ラ・グーマは聖書の伝道之書第4章9節~12節(ECCLESIASTES IV: 9–12)を本文の前にエピグラフとして載せ、その中の一部And a threefold cordをタイトルに使いました。ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について語る第4章は「ここに我身をめぐらして、目の下に行われる諸々の虐げを視たり。ああ虐げらるる者の涙流る、これを慰むる者あらざるなり。また、虐ぐる者の手には権力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり……」で始まります。おそらく、ラ・グーマの目には、この1節が南アフリカの現実の姿と重なったのでしょう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、エピグラフに用いられた4節は「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。/即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。/又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。/人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり。」(Two are better than one; because they have a good reward for their labour. / For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up. / Again, if two lie together, then they have: heat, but how can one be warm alone? / And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken.)と続きます。

作品論を書いたときはその日本語訳の『三根の縄』をタイトルに使いましたが、編集者の方が『まして束ねし縄なれば』を考えて下さいました。その時は「うまいこと思いつくもんやなあ!」と感心しただけでしたが、本となって送られてきたときには、改めてそのタイトルでよかったなあとしみじみ思いました。今もその思いは変わりません。

② 表紙絵

日本語訳の作業をしているときに社長さんから電話があり、妻に表紙絵を依頼して下さいました。元々絵が好きで、働きながら神戸の伊川寛さんの絵画教室に通って油絵を描いていました。教室の人たちが年に一度神戸元町のたじま画廊で開くグループ展にも出品させてもらっていました。伊川さんは小磯良平と同じ世代の画伯で、なかなか洒落(しゃれ)た絵を描いておられました。宮崎に来る前は二人の子供と仕事でいっぱいいっぱいの生活でしたので、週に一度土曜日の午後に二時間ほど教室の時間を絞り出すのがやっとでした。ずっと描きたい思いを抱えたまま慌ただしく毎日を過ごしていましたが、何とか大学が決まったとき、僕と交代して仕事を辞めました。絵を描く時間が出来ると大喜びでした。宮崎に来てからは毎日楽しそうに絵を描き始めました。元々体力がないので塗りかえのきく油絵はきつく、一発勝負の水彩とパステル主体で最初は花を描き、近くにある公園の菖蒲園に毎日通い詰めていました。水仙や椿、桜やポピー、薊(あざみ)や菫(すみれ)、イリスや牡丹(ぼたん)、捩花(ねじばな)や紫陽花(あじさい)、秋桜(こすもす)や木通(あけび)、白い一重の山茶花(さざんか)や木立ちダリヤなど、花や実を調達するのは僕の役目で、描いた絵は当時流行っていたプリントゴッコでカードにしました。それを出版社にも送っていたので、声をかけて下さったのでしょう。

やっと衛星放送(BS)が始まった頃で、そのアンゴラのニュースの場面にお気に入りの犬を加えて、30分ほどでちゃっちゃっと水彩で殴り描きをして表紙絵の元が出来上がりました。注文をもらって描く今の絵はもっと時間をかけて丁寧に仕上げていますが、ほんとちゃっちゃっという感じです。しかし、変に気を遣わない分、勢いがあるのです。その絵を表と裏に重なるように分けて使って下さって、本が出来ました。↓

表紙絵(表)

表紙絵(裏)

元の絵

カレンダー(2020年8月)に入れた絵

その後次々と表紙絵を描かせて下さり、56冊にもなりました。出版された本の一覧です。→「本の装画・挿画一覧」(門土社)

僕が雑誌に書かせてもらって世界が広がったように、妻も表紙絵の機会をもらって色も絵も幅が広がって行きました。二人とも、違う形で育ててもらいました。

今も妻が乗馬に通っている宮崎の牧場に来られていた大分の牧場主から誘ってもらったおかげで5年間(2008年~2012年)、大分県飯田高原→九州芸術の杜のギャラリー夢での個展に恵まれ、2013年からは世田谷区祖師谷の「ルーマー」→Cafe & Gallery Roomerで個展を続けています。去年はコロナ騒動で個展が叶いませんでしたが、今年は会場に行けない場合はZoomを使ってでも何とか開催したいと考えています。個展の詳細は→ 「個展詳細」、今まで描いたものはブログ→「小島けいの絵のブログ Forget Me Not」で紹介しています。

③ 日本語訳

翻訳は結構大変でした。理由はいろいろありますが、初めてだったこと、イギリス英語だったこと、それに物語で一文一文が極めて長かったことなどです。結局本文の日本語訳だけで一年半ほどかかりました。ワープロを使い始めた頃で、原稿をフロッピーで郵送したあと暫くしてから、社長夫妻と編集者のかたが手を入れて下さった印刷原稿が送られてきました。1割ほどは、読者のためにこの表現でどうでしょうかという提案のための付箋がたくさんついていました。翻訳した時のこぼれ話のようなものを少し書いています。→「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)、→「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)、→「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)

終わった時ももう翻訳にはかかわりたくないと思いましたが、その後、グギ・ワ・ジオオンゴの『作家、その政治との関わり』(Writers in Politics)とワグムンダ・ゲテリアの『ナイス・ピープル』(Nice People)の2冊の日本語訳を言われて断れず、やっぱり一年半ずつかかって仕上げました。それぞれ200~300万かかると言われたまま出ていません。『ナイス・ピープル』はいつか本を出せるかも知れませんが、取り敢えずメールマガジンに分けて連載しませんかと言われました。→「日本語訳『ナイス・ピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)その解説→「『ナイス・ピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)その作品論→「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(「ESPの研究と実践」第3号5-17頁、2002年)

『ナイス・ピープル』のタイトルは工夫しないといけませんねとおっしゃっていた社長さんも、『まして束ねし縄なれば』を考えて下さった編集者の方もお亡くなりになり、お会いすることはもう叶いません。

『ナイス・ピープル』の表紙

『作家、その政治との関わり』はケニアの政治状況だけでなく、韓国の民主化運動で死刑を宣告された詩人金芝河とアフリカ系アメリカの抑圧された歴史も含まれていたため、ケニアと韓国の歴史を丸々最初から、アフリカ系アメリカの歴史は再度辿る必要がありました。もちろんずいぶんと視野は広がりましたが、大学での仕事も格段に増え、その上出版できるかどうかも定かでない状況での作業はきつかったなあ、という感覚が残っています。あの時だったからこそ出来たのだと思いますが、今後も出版されることは、まずないでしょう。折角でしたので、独立時から新植民地体制に移行するケニアの状況についてはまとめて、英文で書きました。→“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁、2003年。

「翻訳にはかかわりたくないな」と感じた学生の頃の思いは今も変わりません。

『作家、その政治との関わり』の表紙

2010年~の執筆物

続モンド通信19(2020年6月20日)に収載

 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「科学研究費 1」(玉田吉行)

 1988年度前期の授業が終わって一段落した頃、人事の世話をして下さった化学の人から科学研究費に応募したらどうですかと薦められました。高校の教員を辞めたあと非常勤も長く、科学研究費の存在も知らなかったので、よくわからないまま取り敢えず出してみるかと、殴り書きで書類を出しました。応募要領を読んでも具体的なイメージが湧きませんでしたが、その時一番力を入れていた南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマに関連させて「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」とタイトルをつけ、研究種目は一般研究(C)、研究分野は該当するものがなさそうなので「その他外国語・外国文学」、個人では500万が上限のようなので、3年か4年で500万、そんな感じだったと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

その後書類を書いたことも忘れていましたが、翌1989年四月に単年で100万を交付するという通知が届きました。交付決定の基準はわかりませんが、直前の出版物が多かったからだと思います。1987年の年末にサンフランシスコで行なわれたMLA(Modern Language Association of America)とカナダで行なわれたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会(Alex La Guma /Bessie Head Memorial Conference)での発表や、反アパルトヘイト運動の一環として行なわれていたアパルトヘイト否(ノン)関連の講演会での発表などの原稿に手を入れて、雑誌「ゴンドワナ」(横浜:門土社)や「黒人研究」、「言語表現研究」などの研究誌にたくさん書いていたからです。業績欄には1987年と1988年十月までのラ・グーマ関連の14本分を記入しました。

元々小説を書くための空間を確保するために大学に来ましたので、研究は念頭にはなかったのですが、大学では教育の他に研究と社会貢献が求められるとあとになって知りました。出版社の社長さんの助言もあって小説は当座封印して、薦められるままに大学用のテキストやら翻訳も含めて、いろいろ書くことにしました。

理科系と文科系では科学研究費に対してかなりの温度差があったようで、一般教育の文系の同僚にも後期から非常勤を始めた旧宮崎大学でも、科学研究費の交付を受けた文系の人は見当たらないばかりか、そもそもほとんどの人が申請すらしてないようでした。大学が外部資金獲得をうるさく言うようになったのは、文部科学省によって運営交付金の恒常的な削減が強行され始めてからです。

交付が決まった年の秋に文部省の職員が来て、夕方4時からの懇親会に出席するように言われました。授業が入っていたので行きませんでしたが、同僚二人が情報を聞きつけて出席してもいいですかと聞いてきました。もちろん僕に権限があるわけでもないので、出席したようですが、二人とも翌年に科学研究費が交付されていました。英語科の同僚にその話をすると、学年末に予算が余ったから科研費どうですかと電話があったけど、断りましたよ、ということでした。急に申請する気が失せてしまいました。

その時の申請書類のコピーはファイルに綴じて保管し、定年退職の時も残していたのですが、部屋の引っ越しでどこかに紛れてしまったようで、申請の詳細は今となっては定かではありません。ただ、内定が決まっていた名古屋医療専門職大学の事務の方が文部科学省に提出する審査書類を作成するために課題番号を調べている際に最終報告書をウェブ上で見つけて下さり、初めて報告書が公開されて残っているのを知りました。→「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」その報告書です。

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研究課題「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」

研究課題/領域番号           01510294

研究種目/一般研究(c)

配分区分/補助金

研究分野/その他外国語・外国文学

研究機関/宮崎医科大学

研究代表者/玉田 吉行  宮崎医科大学、医学部、講師 (80207232)

研究期間(年度)1989

研究課題ステータス           完了 (1989年度)

配分額 *注記       1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

1989年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

キーワード アレックス・ラ・グーマ / 南アフリカ文学 / 亡命作家 / アパルトヘイト下の文学 / ミリアム・トラーディ / カラード作家 / アフリカ人作家

研究概要

アレックス・ラ・グーマの『三根の縄』(1964)の作品論、アパルトヘイトの歴史と現状についての講演、南アフリカ作家ミリアム・トラーディさんの宮崎講演の実現、が主な成果である。

『三根の縄』は50年代のアパルトヘイト体制下で呻吟するケープタウン郊外の「カラード」と称される人々の状況を描いた物語だが、歴史を記録したい、世界に現状を伝えたいという作家ラ・グーマの願いが反映されている。雨のイメージを象徴的に使った文学手法に着目し、1988年カナダのブロック大学で開催されたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会で行なった口頭発表を軸に「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』―南アフリカの人々」にまとめた。近々出版予定(校正済み)

講演は、愛媛県松山市の市民グループ「アサンテ・サーナ!」に招かれ、50年代、60年代の文化的・社会的状況を生み出した政治的、歴史的背景を中心に行なったもので、今までのまとめと今後の方向づけという意味と、研究成果を社会に問う意味でよかったと思う。「アパルトヘイトの歴史と現状」にまとめ、近々出版の予定。(校正済み)

突然の来日のため、個人的招待という形になったが、南アフリカ国内外で活躍中の作家ミリアムさんを迎え、本学で一般公開の講演会を持った。文化的行事の少ない宮崎では、マスコミも好意的に取り上げ、大きな反響があった。通訳も含め、講演会という形で研究成果を社会に還元出来たのは、出版物を世に問う以上の成果があったように思う。1960年代後半から作家活動を始めたミリアムさんとの交流は、研究テーマそのものでもあった。宮崎訪問、滞在についてのエッセイ、講演「南アフリカの文学と政治」と質疑応答の翻訳も含め「ミリアムさんを宮崎に迎えて」にまとめ、近々出版の予定。(現在、校正中)

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「ミリアムさんを宮崎に迎えて」ミリアムさん

ミリアムさん・トラーディ(小島けい画)

次に申請書類を出したのは、外部資金がうるさく言われ始めた2000年に入ってからです。たまたまその少し前に教授になり、大学の教員には教育、研究、社会貢献が求められると意識し始めた頃です。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信19(2020/6/20)

 

私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記12回目:アフリカの旅―前と後―(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「 科学研究費 1」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

 

この絵は、1992年に出版されたアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』の装画です。

私たちがジンバブエに向かったのは、その年の6月の終わり頃ですから、出発する前に描き終えて、出版社に送ったわけです。

この小説は、南アフリカが舞台ですが。実際にはどういうところなのか、私は全くわかりませんでした。そこで参考にしたのがBSで放送されたアンゴラのニュースです。その短かい映像のなかで一番印象に残ったのが、乾いた土埃りの道を黙々と歩く黒人の人たちの姿でした。

南アフリカではありませんが、アンゴラもアフリカ南部に位置しており、南アフリカの北側にあります。きっと同じような光景があるのではないか、と思いました。

当時の私の描き方は、今とは全く違います。短時間で一気に描きあげて,終わり!というきわめて大ざっぱなものです。<5m離れて見てみると、いい感じ>とよく言われました。

この絵は、その描き方の最たるものだと思います。ただ、いつもは注文の多い出版社の社長さんも編集者の方も、珍しく1回で気に入って下さり、OKがでました。

おかげで、私たちはハラレ滞在中に、日本から送られてきたこの本を受けとることが出来ました。

私が参考にしたのはアンゴラでしたが、実際にジンバブエに行ってみて、驚きました。ハラレのいろいろな場所で、これと同じような光景を目にしたからです。

白人はいつも車で移動して、決して外を歩いたりはしません。私たちは中古の自転車を買いましたが、それさえも高価なものです。そのため、黒人は働きに行く時も、買い出しに向かう時も歩くしかありません。

野原には、自然とその人々の通る道が幾すじも出来て、交差していました。

一瞬のイメージで描いた絵でしたが、それは日常のよくある風景で、黙々と、ひたすら歩いて家にむかうしかない<現実>そのものでした。

『まして束ねし縄なれば』

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2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「アフリカの旅―前と後―」(小島けい)

 今でこそ、アフリカの情報も多少は入ってくるようにはなりましたし、ましてやインターネットという便利な物も普及していますが。

私たちがジンバブエに行こうと決めた約三十年前は、アフリカでの生活が実際にどういうものかは、全くわかりませんでした。

そこで、日本から直接アフリカの生活に入るのではなく、一度どこかに滞在し少し体調を整えてから、ジンバブエに向かおうと思いました。

ジンバブエの地図

帰りも同じように、どこかでアフリカでの生活の疲れを少しとってから、日本への長旅に備えたいと考えました。

そうして、往きはロンドンで帰りはパリで、それぞれ一週間程すごすことに決めました。

どちらにも、相方が以前アメリカやカナダでの国際会議でお会いして、再会を約束した方たちがおられました。

ただ、旅を記録した3~4冊のノートは、最後の一冊以外は紛失しましたので、断片的な記憶にたよるしかありません。

<ロンドン編>

ロンドンでまず思い出すのは、ヒースロー空港です。

<やっと着いたあ・・・・>と四人はそれぞれ背中にはリュックを担ぎ、大きなトランクをゴロゴロ引っぱりながらタクシー乗り場に向かいました。するとすかさず二人の男の人がやってきて、サッサと荷物を二台の車に積み込みました。何かを考える間もなく、宿に向かって出発です。

ところが、これが空港名物(?!)の<白タク>だったとわかったのは、もはや宿についた後でした。

ロンドンの宿は、私の大学時代の友人が経営している日本人向けのインです。大学時代は、最初はケービング部(洞窟探検部)で、後では部をやめて二人で一緒にケイビングをやっていたお友だちですが。

その頃は、ロンドンで3~4件のインの経営者となっていて、中でも一番落ち着くからと住宅街にある<イン>を紹介してくれました。

<イン>

彼女の<イン>は、ビジネスマンや旅行者にとても人気でした。何故なら朝食に、しっかりした日本食の<定食>を出してくれるからです。

私たちの滞在中も、朝からハンバーグ定食やら天ぷら定食が出ましたが、慣れない外国生活では、とてもありがたいものでした。

朝ご飯をしっかり食べた後は子供たちのリクエストで、大英博物館でミイラを見たり、シャーロックホームズの家(?!)を訪ねたりしましたが。

もちろん一番の目的は、相方が研究している南アフリカの作家<アレックス・ラ・グーマ>の奥さんであるブランシさんに会うことでした。

ラ・グーマは、1966年にANC(アフリカ民族会議)の指示でロンドンに家族で亡命し、その後ソ連とキューバに外交官として招かれたりしましたが。1985年に亡命先のキューバのハバナで急死しました。60歳の若さでした。

ラ・グーマ(小島けい画)

私たちが訪れた頃、ブランシさんはロンドンで一人暮らしをしておられました。古いアパートのなかの一軒が彼女の住まいでしたが、1階は玄関、2階が居間兼台所、3階が寝室になっていました。つつましい生活のようでしたが、清潔感のある落ちついた雰囲気の家でした。それは、ブランンシさんの温かくもの静かな性格と重なりました。

彼女は私たちのために、ミートボールのような郷土料理を準備して待っていてくれました。心のこもったおいしい食事の後に、相方は、結婚式や、ソ連で(長男・次男も一緒に)撮った写真をいただいたり、本だけでは知りえない作家の実像や様々な体験談

をいろいろ聞かせていただき、大きな感銘を受けたようでした。

二人が話し込んでいる間、私と子供たちはアパートのまわりの庭を散策したりして、ロンドンという街をそれなりに楽しんで過ごしました。

<アフリカのお母さん>という感じのブランシさんとの時間は、四人にとってあったかい、そして心地よい数時間となりました。

その後世界の情勢は変わり、お会いした数年後にブランシさんは南アフリカへの帰国が実現しますが。相方との交流は、南アフリカにもどられてからもしばらく続いていたそうです。

ブランンシさん(小島けい画)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「科学研究費 1」(玉田吉行)

 1988年度前期の授業が終わって一段落した頃、人事の世話をして下さった化学の人から科学研究費に応募したらどうですかと薦められました。高校の教員を辞めたあと非常勤も長く、科学研究費の存在も知らなかったので、よくわからないまま取り敢えず出してみるかと、殴り書きで書類を出しました。応募要領を読んでも具体的なイメージが湧きませんでしたが、その時一番力を入れていた南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマに関連させて「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」とタイトルをつけ、研究種目は一般研究(C)、研究分野は該当するものがなさそうなので「その他外国語・外国文学」、個人では500万が上限のようなので、3年か4年で500万、そんな感じだったと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

その後書類を書いたことも忘れていましたが、翌1989年四月に単年で100万を交付するという通知が届きました。交付決定の基準はわかりませんが、直前の出版物が多かったからだと思います。1987年の年末にサンフランシスコで行なわれたMLA(Modern Language Association of America)とカナダで行なわれたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会(Alex La Guma /Bessie Head Memorial Conference)での発表や、反アパルトヘイト運動の一環として行なわれていたアパルトヘイト否(ノン)関連の講演会での発表などの原稿に手を入れて、雑誌「ゴンドワナ」(横浜:門土社)や「黒人研究」、「言語表現研究」などの研究誌にたくさん書いていたからです。業績欄には1987年と1988年十月までのラ・グーマ関連の14本分を記入しました。

元々小説を書くための空間を確保するために大学に来ましたので、研究は念頭にはなかったのですが、大学では教育の他に研究と社会貢献が求められるとあとになって知りました。出版社の社長さんの助言もあって小説は当座封印して、薦められるままに大学用のテキストやら翻訳も含めて、いろいろ書くことにしました。

理科系と文科系では科学研究費に対してかなりの温度差があったようで、一般教育の文系の同僚にも後期から非常勤を始めた旧宮崎大学でも、科学研究費の交付を受けた文系の人は見当たらないばかりか、そもそもほとんどの人が申請すらしてないようでした。大学が外部資金獲得をうるさく言うようになったのは、文部科学省によって運営交付金の恒常的な削減が強行され始めてからです。

交付が決まった年の秋に文部省の職員が来て、夕方4時からの懇親会に出席するように言われました。授業が入っていたので行きませんでしたが、同僚二人が情報を聞きつけて出席してもいいですかと聞いてきました。もちろん僕に権限があるわけでもないので、出席したようですが、二人とも翌年に科学研究費が交付されていました。英語科の同僚にその話をすると、学年末に予算が余ったから科研費どうですかと電話があったけど、断りましたよ、ということでした。急に申請する気が失せてしまいました。

その時の申請書類のコピーはファイルに綴じて保管し、定年退職の時も残していたのですが、部屋の引っ越しでどこかに紛れてしまったようで、申請の詳細は今となっては定かではありません。ただ、内定が決まっていた名古屋医療専門職大学の事務の方が文部科学省に提出する審査書類を作成するために課題番号を調べている際に最終報告書をウェブ上で見つけて下さり、初めて報告書が公開されて残っているのを知りました。→「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」その報告書です。

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研究課題「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」

研究課題/領域番号           01510294

研究種目/一般研究(c)

配分区分/補助金

研究分野/その他外国語・外国文学

研究機関/宮崎医科大学

研究代表者/玉田 吉行  宮崎医科大学、医学部、講師 (80207232)

研究期間(年度)1989

研究課題ステータス           完了 (1989年度)

配分額 *注記       1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

1989年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

キーワード アレックス・ラ・グーマ / 南アフリカ文学 / 亡命作家 / アパルトヘイト下の文学 / ミリアム・トラーディ / カラード作家 / アフリカ人作家

研究概要

アレックス・ラ・グーマの『三根の縄』(1964)の作品論、アパルトヘイトの歴史と現状についての講演、南アフリカ作家ミリアム・トラーディさんの宮崎講演の実現、が主な成果である。

『三根の縄』は50年代のアパルトヘイト体制下で呻吟するケープタウン郊外の「カラード」と称される人々の状況を描いた物語だが、歴史を記録したい、世界に現状を伝えたいという作家ラ・グーマの願いが反映されている。雨のイメージを象徴的に使った文学手法に着目し、1988年カナダのブロック大学で開催されたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会で行なった口頭発表を軸に「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』―南アフリカの人々」にまとめた。近々出版予定(校正済み)

講演は、愛媛県松山市の市民グループ「アサンテ・サーナ!」に招かれ、50年代、60年代の文化的・社会的状況を生み出した政治的、歴史的背景を中心に行なったもので、今までのまとめと今後の方向づけという意味と、研究成果を社会に問う意味でよかったと思う。「アパルトヘイトの歴史と現状」にまとめ、近々出版の予定。(校正済み)

突然の来日のため、個人的招待という形になったが、南アフリカ国内外で活躍中の作家ミリアムさんを迎え、本学で一般公開の講演会を持った。文化的行事の少ない宮崎では、マスコミも好意的に取り上げ、大きな反響があった。通訳も含め、講演会という形で研究成果を社会に還元出来たのは、出版物を世に問う以上の成果があったように思う。1960年代後半から作家活動を始めたミリアムさんとの交流は、研究テーマそのものでもあった。宮崎訪問、滞在についてのエッセイ、講演「南アフリカの文学と政治」と質疑応答の翻訳も含め「ミリアムさんを宮崎に迎えて」にまとめ、近々出版の予定。(現在、校正中)

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」ミリアムさん

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ミリアムさん・トラーディ(小島けい画)

次に申請書類を出したのは、外部資金がうるさく言われ始めた2000年に入ってからです。たまたまその少し前に教授になり、大学の教員には教育、研究、社会貢献が求められると意識し始めた頃です。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜15:ゴンドワナ12~19号(「続モンド通信18号」、2020年 5月20日)

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日)の続編で、「ゴンドワナ」の12号から19号に掲載された記事についてです。20~21号は校正段階で未掲載ですが、紹介しています。すべて宮崎医科大学に来てから書きました。

12号(1988年)→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)(6-19頁。)

「ゴンドワナ 」12号

1988年9月に大阪工業大学で開催された黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。シンポジウムでは小林信次郎氏(大阪工業大学)、北島義信氏(暁学園女子短期大学)、Cyrus Mwang氏(大阪工業大学非常勤)といっしょに発表、私はラ・グーマと南アフリカについて話をしました。3月まで嘱託講師としてLL教室で工学部の英語の授業を担当していました。その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、公費出張の第1号となりました。その4月に映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズ氏が大阪中之島のメイデイのデモに参加すると聞いていっしょに歩きたかったのですが、参加出来なかったのは心残りです。ドナルド・ウッズ氏はロンドンの亡命中でした。→「宮崎医科大学 」

大阪工業大学

13号(1988年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」(14-25頁。)

「ゴンドワナ 」13号

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(「ゴンドワナ」11号39-47頁)の後編、ラ・グーマの作家論・作品論のシリーズ5作目で、『夜の彷徨』の文学手法についての作品論でです。表題に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージが、幾重にも交錯しながら物語全体を覆い、ラ・グーマが意図したように、作品の舞台となったケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している点を評価しました。

ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)

14号(1988年)→「アパルトヘイトの歴史と現状」(10-33頁。)

「ゴンドワナ 」14号

松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

南アフリカのアパルトヘイトの歴史と、その制度が廃止される直前までの流れを分析したもので、アパルトヘイト政権誕生や体制の仕組みと、アフリカ人の抵抗運動の歴史的な経緯を詳説し、白人政府と富を共有する日本との関わりなどを含めた現状を分析しました。文学作品を理解する上で欠かせない歴史認識の作業から生まれました。

15号(1990年)→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(9-29頁。)

ミリアム・トラーディさん(小島けい画)

アパルトヘイト体制があった時代に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に招いて宮崎医科大学で講演してもらった時の講演の記録です。送った案内とは違った形で宮崎の新聞社5社に報道されました。テレビでも「人種差別を考える会」と放送されましたので、大学の執行部からブラックリストに載ったと言われ、助教授への昇進人事を凍結されました。それ以来マスコミ関係は避けるようになりましたが、ミリアムさん本人は、白人政権に荷担する日本に来て歓迎され、講演でも話を出来て満足そうでした。8月6日の女性の日に立正佼成会から招待されたとのことでした。

15号(1990年)→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」15号2-8頁。)

「ゴンドワナ 」15号

学生の助けも借りて、家でパーティをしたり、一ッ葉の海岸を案内したり、滞在期間にミリアムさんと過ごした時の随想です。ちょうど出版してもらったアレックス・ラ・グーマの編註英文書And a Threefold Cord(『まして束ねし縄なれば』)を紹介しましたら、南アフリカでは発禁処分を受けていたので、感慨深げに眺め、その日のホテルで明方まで読んでいたということでした。

And a Threefold Cord(表紙絵:小島けい画)

16号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、14-20頁。)

「ゴンドワナ 」16号

1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の前編です。1962年から1963年にかけて書かれたこの物語は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていました。作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸に、当時の社会的状況とラ・グーマの身辺について書きています。

17号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、6-19頁。)

「ゴンドワナ 」17号

ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の後編です。ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

18号(1991年)→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(7-12頁。)

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー

南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられています。

18号(1991年)→「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号(2-6頁。)

「ゴンドワナ 」18号

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来日したカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫講座の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に連れて来たり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

19号(1991年)→「自己意識と侵略の歴史」(10-22頁。)

「ゴンドワナ 」19号

この500年ほどのアングロ・サクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。

20号~21号:校正段階未発行)

20号(1993年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」(14-20頁。)

本来なら、マンデラに代わって国の代表となるべきだった人ロバート・マンガリソ・ソブクウェについての人物論です。30年以上ソブクウェと家族を支援し続けた白人ジャーナリストベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、誕生からやがて反アパルトヘイト運動の指導者として立ち上がり、ANC(アフリカ民族会議)と袂をわかって新組織PAC(パン・アフリカニスト会議)を創設するまでの過程を論じています。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(小島けい画)

21号(1994年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」(6-19頁。)

「ロバート・ソブクウェというひと ①南アフリカに生まれて」の続編で、パン・アフリカニスト会議の議長として反アパルトヘイト運動を展開したソブクエの人物論です。政府はソブクエの影響力を恐れるあまり「ソブクエ法」という世界でも類のない理不尽な法律を作って「合法的に」ソブクエを閉じ込めましたが、拘禁されながら54歳の若さで南アフリカの土と消えるまで、そしてそれ以降も、南アフリカの人たちを支え続けたソブクエの孤高な生き方を検証しました。(宮崎大学教員)

ソブクウェと家族(『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』から)